2013-04-27

2006年08月05日 津田充幸「戦後60年目の日記」を読む

2006年08月05日
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 津田充幸「戦後60年目の日記」を読む

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奈良の全国大会のおり、わたしを満面の笑顔で励ましてくれて、 表題の64ページの冊子をいただいた。

津田さんは神戸大学附属養護学校の副校長だった。
「フゾク」の「副校長」といえば、実質の総責任者だ。
単著のタイトルともなった「まわり道をいとわないで」(1999年)は、 子どもたちの限りない発達の可能性を確信して、それを徹底して守り抜く、教師としての信念なのだろう。
退職後6年目の年のこの「エッセイ」にも、そこかしこに、 「学校」「ともだち」「発達」への愛情があふれている。

そして、1995年1月17日の阪神大震災とその後の10年は もう一つの津田さんの深い人生哲学を形成している。

「困難なとき、人はやさしくなる」の一節
 信号の壊れた四つ辻では車は止まり、のろのろと走っていた。
 ハンドルを握る手も、人を思いやる気持ちにあふれていた。
 給水のとき、代替バスを待つときも長い行列をつくったが、
 知らない者どおしが、前からのつきあいがあったかのように声をかけあった。
 困難なときに、人は人を求めあうのだろうか。
 (中略)
 「服装、持ちもの、遅刻」など校則という名の「きまり」ごとも、
人のいのちと、人のつながりあうことの大切さを前にして、
 一瞬ではあったが吹っ飛んでしまったのも、あの地震であった。
 何事もお伺いをたてなければことのすすまない学校にも
文部省(当時)はいきなはからいをみせた。
 「迅速に、弾力的にことを運べ」という通達が出され、
学校独自の判断にまかされた。
 地域の方からの学校への給水の申し出も、
 被災生徒の転入の受け入れも即座に”OK”をだした。
 (中略)
 学習発表会の練習にかかったときの震災であったが、
 「こんなときだから、やめよう」でなく、「こんなときだからこそ、やろう」と
 余震の続く中で練習を始めた。雪山合宿も少し日をずらして実施した。
 日々の確かな教育実践に支えられた教職員集団の自治の力が、さまざまな困難を
 のりこえたのだと思っている。
 あの震災は、「学校はいつもちゃんとやっているか」と問いかけた
のではなかろうか。

そんな津田さんに「難病」が襲う。
筋肉の炎症から筋肉が溶けていく原因が不明の病。
「口は達者やから、演説でも電話でもなんでもするで」と笑う。

「終戦っ子」はさびしがりや の一節
(大学病院の4人部屋にやってきたのが同世代のおじさんたちだ)
 「ひとりでいる、みんなでいる」の両方がいるんだなあ。
 (中略)
 サッカーワールドカップ、アジア予選の北朝鮮戦を4人でテレビを見る。
 同じものをみるのだから遠慮はいらない。イヤホーンをはずす。
 病室なので大きな声は御法度だが、みんなで見ると、何倍も楽しい。
 来年のドイツまで、何回かテレビを画面を追うことになろうが、
 そのとききっと、この夜のことを思い出すことだろう。
 「集団が必要なのは教育だけではないんやなあ」と
 (中略)
 人と人とのつながりが、健康と発達の原動力であることを実感した
入院生活でもあった。

 津田さんは1945年8月、国民学校1年生の夏休みだった。
2年前父は病死。
長兄は戦争にとられ平壌に。次兄は学徒動員で台北に、いづれも消息不明。
夏休みが終わって9月に学校に行くと、運動場はサツマイモ畑だった。
運動会もなく、遠足は運動場でとれたふかしイモ3つを持って、
隣村のお宮さんに歩いていった。
その時の集合写真が卒業時を除いてただ一枚の小学校時代の写真だったそうだ。

 憲法九条を変えさせてはならない
 「第九条」は、国民学校世代の願いの結晶でもあるからだ。
 
このゆるがない思想は、
DVDでみた「男たちの大和」には決定的に欠落しているものだ。
「大和」には、津田さんがいう
「2000万人を超すアジアの人々の命を奪った戦争であった」
という侵略戦争の事実が意図的に消し去られている。

この冊子。とても深く、そして重い。
しかし、多くの人に一読していただきたい。

親しい友人にこの冊子を紹介するとき、わたしの抱いたイメージはこうだと言った。
今井正監督の映画「青い山脈」
自転車をこぐ池部良や原節子らのなかに、
学帽をかぶった若い津田さんがいるようだ。もちろん「山脈」は六甲。

戦後、平和憲法を抱きしめながら青春を過ごし、友情と連帯をはぐくんだ世代。
まだまだ、がんばってもらわなければならない世代だが
わたしたちはその世代のバトンをしっかりと受けとめたいと思う。
 

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