2011-09-23

『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』


長月の頃、一冊の本がとまらない。

1943年9月29日。 コペンハーゲンのユダヤ教のシナゴーグで早朝の礼拝があった。
「あなた方にお伝えしなければならない重要なお知らせがあります。
昨夜、ドイツ人たちがデンマークのユダヤ人全員を逮捕し、
強制収容所へ移送するため、
コペンハーゲン中のユダヤ人の家を襲撃する計画をたてていると
いう知らせを受け取りました。
状況はきわめて深刻です。我々はただちに行動を起こさなければなりません」

その翌日から11月はじめにかけて、少なくとも300隻の漁船が、
7220人のデンマークのユダヤ人と彼らの家族680人を
スウェーデンに運ぶ秘密の輸送に関わった。

沿岸50か所以上から、1000回の横断が行われたという。
全体で90%以上のデンマークのユダヤ人は
海峡の向こうのスウェーデンに避難所を見出した。

エミー・E・ワーナー 著  池田年穂 訳
『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』
水声社 2010年10月
は、その記録から、推理小説をこえる記述で展開する。
自由であること、「ヒュゲリ(愉快で、ゆったりとして、心地よい)」 であることを大切にする人びとの暮らす小さな国は、
1940年4月9日未明に、2時間ばかりでドイツ軍に降伏した。
(交戦によるデンマーク軍の死者13名。海軍はゼロ)

しかし、その日からさまざまな抵抗がはじまった。
占領下で「非合法の」552紙の地下新聞が
2300万部印刷された。

ヒットラーを激怒させたという国王は、
ドイツ兵の最敬礼に応じることはなかった。
ドイツ人が不思議そうに少年に聞いたそうだ。
「この方がデンマーク国王であるとすれば、警護の者はいったいどこにいるのだ?」
少年は誇らしげに答えた。
「私たち国民が一人残らず国王の警護をするんです」

そんなデンマークの1943年。
9月末から10月の第一週にかけて、 ドイツの行動に対して、
コペンハーゲン大学、オーフス大学は抗議の閉鎖。
デンマークすべての教会では抗議の書状が読み上げられた。
そして、学校、療養所、市民病院などがユダヤ人に避難所を提供する。

ユダヤ人は偽名と偽の診断書を与えられ、
さまざまな病院の診療科に 救急車などを使って分けられ、漁船をまった。
子どもたちは、学校で、教師や校長、仲間の生徒から教えられた。

ある校長は言ったそうだ。
「我々は君にまた会いたいとおもっている。
ここはいつでも君の場所があるんだよ。だけど、今は急いだ方がいい」

ある漁村。
魚売りと教師は、ユダヤ人の救助活動によって親友になった。

魚売りは6人の子どもを一人で育てた。
政治には興味が無かったが、 花売りの兄弟から
「僕たちはどこに隠れていいかわからないんです」と言われ、
一瞬もためらうことなく少年たちを連れ帰って、
数日後、快くスウェーデンに連れて行ってくれる漁師を見つけた。
その後、夫人は地下活動の破壊工作員たちも匿い続ける。
1944年12月、彼女はゲシュタポに捕らえられ強制収容所に送られた。

女教師は、ドイツ人がユダヤ人を迫害するまでは
積極的にドイツに反発していたわけではなかった。
後になってなぜユダヤ人を助ける苦労をしょいこんだのか
と尋ねられたとき、彼女はただこのように述べただけだった。
「それが私の義務だと思ったんです」

  ◆◇◆

この人たちは、けっして裏切らない。
当然のこととして絶大な信頼がある。
信頼に足る、大学であり、教会であり、地下新聞だ。
教師であり医師であり警官である。
こうしたレジスタンスの抵抗の歴史も、
現在のデンマーク社会のベースに流れているのだろう。

ドジョウ内閣のもと、日本原子力研究開発機構は、
東電発表の3倍をこえる1.5京ベクレルが
3月21日~4月30日、海に放出されたと発表した。

「放出された」のではない。
「放出して」それを「隠した」のだ。
驚愕の数字とともに、「信頼」のかけらもない、2011年の日本だ。

 ◆◇◆

レジスタンスにとびこみ、
強制収容所に入れられた青年=バンクミケルセンがいた。
彼は、戦後、障害者の親の会の運動をベースに、社会大臣となり、
ノーマラーイゼーション(すべての人に自由と独立を!)を推進していく。
歴史はすべてつながっている。

そして、数週間前、世界経済の大揺れの中でも、
排除ではなく、インクルーシブな社会をめざす政権を
デンマークは選択している。

2011-09-01

ささやかな抵抗

津軽の友人から「りんご便り」が届く。
今年は10年ぶりの花不足。
そんな自然の猛威を受けつつも、深刻なのは震災後、
輸出が風評被害でまったく止まっているとのことだ。

彼のりんご園を訪ねたのはまだ娘が小さかった頃だ。
りんごの樹と土への愛情の深さに、すごく感動した記憶がある。
最近の研究では、りんごは、セシウムの体外排出にも有効とか。
彼のりんごが届く頃、今年の秋がはじまる。

   ◇◆◇

先日アメリカ東部でM5・8の地震があり、原発2基が緊急停止。翌日ペルーでM7。
幸い大きな被害はなかったようだけれど、
太平洋プレートは”ドンブラコッコ”状態のようで、イヤな感じだ。
平積みの「Newton」の別冊は、「「次」に控えるM9超巨大地震」・・・(^^;) 

そんななか、わが家の「節電」は、昨年比33%減を達成した。
けっして”節電”に協力しているわけではない。
東京電力のやり方にささやかに抵抗している感じだ。
なので、わが家の夜は北欧のように暗い。
フィルター掃除したエアコンは28度で扇風機がメイン。
便座は冷え冷え気持ちよく、
冷蔵庫は「いつの?昭和か?」というような冷凍物は大整理した。

ところがどっこいの東京電力。
日本一暑い群馬で一人暮らしをしてるお袋に電話があったのだそうだ。
「お宅は昨年より電力消費が上がっています。節電にご協力を」
気弱になっているお袋は、
「エアコンはやっぱり止めないとだめかねえ・・・」

ほんとに、東電はえげつない!
昨年は病気のオヤジをかかえ、不在のことが多かった。
電力消費の数字をみるだけなら、一人で一日生活している今年のほうが
多いに決まっている。
まったく、人を思いやる、相手を想像することができないのか! 
べらぼうめ!

   ◇◆◇

9月から新聞を変える。

中学生のとき、「読みたい!」と親に頼んで、ずっと読んできた全国紙だ。
しかし、信念というか、原発のない安心できるくらしの展望を
ジャーナリズムとして貫いて欲しかった。
これも、ささやかな抵抗だ。

この新聞の深代惇郎の「天声人語」にはずいぶん影響を受けた。
そこには教養があり、世界があった。
文章には反骨とユーモアがあり、リズムがここちよかった。

「白雲愁色」
 一匹のトンボが夏の終わりを告げるわけでない。
 一片の白雲が秋の到来を知らせるわけでもない。
 しかし、里に下りてきた赤トンボをよく見かけるようになった。
 雲の風情も夕焼け空も、今までとは違う。
 そして高校野球の終わりは、夏の終わりを告げる。
                        (S50年8月22日)

「夕焼け雲」 
 『夜と霧』の一節だ。
 囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという
 運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、
 美しさに感動することを忘れていない。
 
 みんなは黙って、ただ空をながめる。
 息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。
 数分の沈黙のあと、だれかが他の人に
 「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」
 と語りかけるという光景が描かれている。 (S50年9月16日)
               
高校から浪人時代のわたしは、季節も、きっと歴史も、
ある日突然変わるのではなくて、
静かに、しかし確実に変わる。
それをなすのは、生きている人間だと、感じることができた。

あれから35年以上が過ぎた。
80年代のバブルと90年代のその崩壊、そして格差社会拡大のなかでの3・11だ。
いま、一人一人がどんな信念を持ってどう貫くかが問われている。

駐日スウェーデン大使のステファン・ノレーンの言葉。
「スウェーデンの福祉はある日突然できたものではありません。
 1950年代から少しずつ築き上げてきたものなのです」

魯迅の言葉
「希望とは、地上の道のようなものである。
 もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」


 写真 「光が雲が走る夜明けの海」