2016-12-10

花田春兆の米寿 2013.11.2


「春兆さん 満面の笑顔と 得意のポーズ」
「この三人のスリーショットははじめてです(^_-) 障全協の白沢さんとわたしはもはや戦後ではないといわれた年生まれの同い年です」
「好き春兆と読むなかれ(^_-) よき仲間あって 米寿の実秋」

花田春兆さんの米寿と「蟹の足音」連載200回を祝う会

写真をみてください。
重度の脳性まひで現役のますますエネルギッシュな俳人、
障害者運動活動家、ギネスブックの男です(^_-)

ある雑誌で春兆は死んだかも?と書いちゃったのを
春兆さんが「生きてますよ~」とメールして、
友だちになってしまった佐高信さんもお祝いのスピーチ(^_-)

今日の記念の句は  

  好き仲間ありて 米寿の実る秋

とても気持ちのよくなる会でした。
お手伝いできたわたしもしあわせです(^_-) 
春兆さんのあいさつは 以下に動画で
  https://youtu.be/3fspYInrps0

「これからも 当分 がんばる」
そうです(^_-)


糸賀一雄『福祉の道行 -生命の輝く子どもたち-』2014.1.22


薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
滋賀・あざみ寮の石原繁野さんから昨日いただいて、いっきに読み始めたこの本。田中昌人さんが編集した糸賀さんの新書判の原稿です。すごいです(^_-)
 
糸賀一雄『福祉の道行 -生命の輝く子どもたち-』中川書店(福岡の小さな本屋さんです 問い合わせは4ページ目を参照くださいね) 2013.12.25発行

---序から
人の思想というものは、そんなに不安定なものではないはずである。
誰かもいったように、人はその長い生涯をかけて、20代の時のその人の思想に向かって次第に円熟していくものとみることもできるわけである。
かわるとすれば、円熟の度合いがかわるのであり、その変化の中にあって、時として相反する両極に向かって時計の振り子のように動くことがあっても、それは常に正中線を中心としてのフレであることとみたいのである。

従って、近江学園の歴史は、この正中線が何であるのかということを自分自身について正しくかつ深く認識して、その立場において過去の事実への解釈と意味づけを行う外はないのであって、それが年とともに変わるとすれば、より豊かな、より深い理解への変化であるとみなければならないと思う。


ひまわり号 2014.3.26


薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
「ひまわり号」って知ってますか?
ある方と話してたら、知らなかったので、ああそんなに時がたったのか(^^;)とおもったのです。

30年ほど前、国際障害者年の翌年(だったとおもう)東京・北病院のデイケアー「ひまわり教室」で「列車に乗れたらなあ」のつぶやきを聞いた当時の国鉄労働者が受けとめ、多くの人たちによびかけて上野-日光間を走りました。

その後、「ひまわり号」は全国各地でとりくまれ、交通権の考え方を深め、バリアフリーの駅舎改善、だれもが住みよい町づくり運動へと発展していきました。

この記事(「みんなのねがい」1984年1月号)は、2年目の東京・北コースの「ひまわり号」で、同乗ルポは30年ほど前はたしかに青年だったわたしでした(^_-)

オバQ描いて ケニアへ行こう 2014.8.22


薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
50年近く前のフォノシートが出てきました。
フォノシートって知ってますか?(^_-)
この「オバQ音頭」のフォノシートとオバQをプリントした浴衣地が
 「オバQ描いてケニアに行こう」の一等賞でした。

たしか小学2年生、ハガキは一枚5円だったようにおもいます。
わたしの勲章です。

 しかし、よく保存してたなあ 。

富山 白海老 2014年9月21日

「岩瀬浜のマップ。もう少し広域を「岩瀬」というのかな。老舗の「松月」は白海老料理が抜群(^_-)」
「このお刺身には白海老70尾が結集しています。一つ一つ手でむくのは近所のおばちゃんたちのアルバイトとか(^_-) おどろく不思議な上品な甘さ!いままで感じたことのないうまさ」
「カニも絶品ですが、ジュンサイとともにある白海老ダンゴ、これ一つが白海老50尾!弾力と甘さが絶品!」
「白海老の唐揚げ もう、食べちゃいたいくらい(食べた(^_-))」
富山・岩瀬浜で一度食べてみたかった「白海老」料理(^_-)
で、念願叶って、いやあーー白海老って富山名産だから、
それをすべて満喫させてくれるこの料亭は、「世界レベル!」というと、
年齢は不詳だけれどとってもきくばり上手の女将が「まあ、うれしいわあ」。

ほんとは予約しかダメなんだそうですが、
食べたそうなわが一族4人組をみた女将の判断で、
 「ぜひ、食べていかれ」。
ほんと、富山はみんなやさしいね(^_-)

この女将、すべてを取り仕切り、毎朝3時に河岸に出てその日に魚を選び、
すべての部屋のお客さんの反応を把握してました。

おそるべし年齢不詳パワー(^_-)

『松田解子 写真で見る愛と闘いの99年』 2014年10月24日


薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
「「みんなのねがい」1983年1月号」
『松田解子 写真で見る愛と闘いの99年』(新日本出版社)が刊行されたよと先輩が届けてくださいました。(先輩の奥方が編集に関わったみたいで、普及に力入ってます(^_-))
しかし、この本、じつによく編集されていて、
日本の歴史が松田解子の歩みとともに記録され、解明されています。

わたしは30年ほど前に江古田のお宅にうかがわせていただいたことがあります。「みんなのねがい」1983年1月号の清水寛委員長(当時47歳)との対談でした。

北海道夕張の取材直後にもかかわらず、4時間におよぶ収録の間、情熱を込めた話しぶりで、「その77歳とは思えない若さに私たちは終始圧倒されていました」。

いただいた見事な筆の色紙、
 春咲け
 夏照れ
 秋成れ
 冬澄め
 わがふるさとよ
 祖国よ
は、いま、ますますこころに響きます。


金沢 純喫茶ローレンス

15年ぶりぐらいに訪ねた古い喫茶店。
もうやってないかなとおもいながらおそるおそるのぞくとやってます!
店主のおばさまは、たしかだいぶ年上だったと思うのですが、
さすが魔女族?
年取っていない!
営業48年(2014年現在)。
コーヒーはじつにたっぷりめで、どーんとお菓子がついてくる。
なぜなんだあ(^_-)

現役の黒電話の音が懐かしくていいねえとほめると
「そうでしょ。この電話で五木さん直木賞受賞を受けたのよね」
と魔女様のエンジンがかかってしまった。 
2015年2月8日
薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真

金沢 宮田・鈴庵

薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
薗部 英夫さんの写真
「近くには「あめ」の俵屋がある
http://www.ame-tawaraya.co.jp/」
浅野川沿いの宮田・鈴庵は「お麩」の店。
落ち着いた店で麸の懐石料理を静かにいただく。

この年2009年3月、娘の進路にいろいろ気にかけていただいていた恩師を、家族三人で訪ねて福祉系の入学を報告したのです。

「花には太陽を!子どもには平和を!」を卒業生の贈る言葉にしていた先生は、とても嬉しそうに、教え子二人の一人娘の成長を喜んでくれました。

「早く子離れしないと」と眼鏡の奥の目が笑って。

そういえば、先生は娘のこと、中学生の頃から「りょうさん」とさん付だったなあ

地域密着・多機能活動スペースの「コムーネ」開所 2015年3月16日


「一階には小さいけれど多機能ホールと「土間」が(^_-)
二階にはキッチンルールなどがあります。」
「昼の部の全員集合(^_-)」
「夜の部の、はい、笑ってえ(^_-)」
地域密着・多機能スペースの「コムーネ」の開所パーティには、なんと50人が集まって、それぞれの希望を語り、小さな町にどんどんつながりが太くなっていく感じがしました。感無量です(^_-)

わたしの大好きな北欧には、自治と民主主義をベースに、「幸せのものさし」があります

でも、幸せは、それぞれが生きる地域・町で、人と人とのつながりを太らせていくなかでつくっていくものだと、いまそう思っています。

小川政亮著『光なき者とともに <小川恂臧・政亮 父子二代の記>』  2015年4月26日


「朝日訴訟弁護団の新井章弁護士が終わりのスピーチ」
「小川先生(長男)ご一家のみなさんもお元気に参加」
「インタビューに答える元気な小川先生」
小川政亮著『光なき者とともに <小川恂臧・政亮 父子二代の記>』
http://www.sosyaken.jp/hiroba/products/detail.php?product_id=219

出版を祝う会での言葉から

◆安倍首相のようなその場しのぎの干からびたような弁論ではなく、今日のどなたの弁論も見事でした。小川先生とどこで出会い、学び、どう過ごしてきたか説得力あるもので、この場に来れてよかった=新井章さん(朝日訴訟弁護団)

◆当時の入試には憲法の書き取りがあった。先生に学んだ平和的生存権は生きる力です=日本社会事業大学「花の8期」大叔母様A
◆生活保護は権利! 憲法25条と9条はつながっている=日社大8期B
◆「権利としての社会保障」は忘れられない=日社大8期C

◆あらゆる人の権利を守ることを運動とともにとらえた=山本忠さん(立命館大)
◆「春風を以て人に接せよ」(父・恂臧)は政亮先生の一面でもあった=矢島里絵さん(首都大学東京)
◆政亮先生と会うと魂が浄化されるような思いがした=保育関係者
◆父・恂臧さんが学んだ京大哲学科には西田哲学の流れの木村素衛や糸賀一雄もつらなる。カント「人間は教育によってはじめて人間となる」が底流にある。人間教育と福祉の思想があり、それは小川先生にもつながるのではないか=笛木俊一(日本福祉大名誉教授)

わたしは、出会いの縁といまでもときどき夢に見る授業風景の想い出を語り、父・恂臧さんの母校でもある四高寮歌の一節を歌いました(^_-)

 自由のために死するてふ
 主義を愛して死するてふ
 男の児の意気地 いまも尚 
 石(いわ)を砕きて砕き得じ

ちなみに、主賓の政亮先生(95歳)は、23日に台所で転んで骨折(^^;)やむなく欠席。祝う会後有志でお見舞いにうかがうと、お元気そうでした(^_-)また、みんなで、遊びましょ

岩佐幹三先生のヒロシマ 2015年11月5日

今朝の赤旗コラム「潮流」

岩佐先生はイギリス政治思想史の研究者
金沢大学のOBOG会でもなんどかお話を聞く機会がありました。
あの日燃えるお母さんを見捨てざるを得なかったことが深い心の傷として生涯続いている・・・そのかなしさ
https://youtu.be/CYnq1WV2ItU

いま、ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会に全力です。
わたしも会員の一人です。 2015年11月5日
http://kiokuisan.com/

ーーー
 被爆70年。被爆者の平均年齢が80歳を超えるなか、被爆体験を次世代に継承する動きが進んでいます。「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の取り組みも、その一つです▼あの日、原子雲の下でなにがあったのか。直接体験していない世代が継承するうえで、なにが大切か。「想像する力と、創造する力だ」。こう語るのは、同会の代表委員を務める岩佐幹三(みきそう)さん。広島で被爆し、86歳となる今も被団協の代表委員の一人として活躍中です▼もともと被爆者はいなかった。普通の人間が、戦争による原爆によって被爆者という“運命”を背負ってしまった。安倍政権による「戦争する国づくり」の“戦争”は核兵器の使用も想像され、世界のだれでも被爆者にされうる▼「16歳の軍国少年」の“運命”は苛烈です。自宅庭で後頭部をバットで殴られたような衝撃で地面に叩(たた)きつけられた、あの日。つぶれた屋根の下敷きになり血を流す母を見つけました。火の手がせまり、気が動転する少年に、母はいいました。「早(はよ)う逃げんさい」▼数日後、家の焼け跡で脂ぎった黒い物体を見つけました。母は人間としてでなく、モノとして殺された。母の表情を忘れられず、仲間と“再び被爆者をつくるな。戦争するな、核兵器なくせ”と運動をはじめました▼「継承すべきはこの被爆者運動の心だ」と岩佐さん。国民の力で“戦争するな、核兵器なくせ”の願いに応える政府に転換させられたなら、母や亡くなった仲間はむだ死にではない、と結びました。

『泣くのはいやだ、笑っちゃおう 「ひょうたん島」航海記』 2016年1月21日

この本に数日はまっていた。
『泣くのはいやだ、笑っちゃおう 「ひょうたん島」航海記』
武井博著 アルテス

「ひょっこりひょうたん島」がスタートしたのは1964年4月6日(月)5時45分。週末をのぞく毎日15分間。わたしにとっては「ひょうたん島」で民主主義や連帯を知らず知らずにわくわくドキドキしながら学んでいたことを思い出した(^_-)

東京オリンピックの年だからわたしは8歳。小学校2年生で、テレビの中で走るアベベを見ながら、家のまわりを走ってた。それから6年生までの5年間。この番組がどれだけ日本の民主主義をすすめさせてくれたろうか(^_-)

当時、武井ディレクターは28歳~32歳。脚本の井上ひさし、山元護久さんも20代。作曲の宇野誠一郎。アニメーションの九里洋二。人形作家・片岡昌、操る「ひとみ座」すごい人たち。

さらに声もすごい!
ドン・ガバチョ大統領=藤村有弘、海賊トラヒゲ=熊倉一雄、マシンガン・ダンディ=小林恭治、サンデー先生=楠トシエ、博士=中山千夏。そして、若山弦蔵も、谷幹一、柳沢慎一、鈴木光枝、黒柳徹子、九里千春、坊屋三郎、青島幸男、松島トモ子も・・・・なんていうキャスティングだろう!

「ひょうたん島」には、
・スーパーマンは要らない=だれもが弱点をかかえながら、どのように協力したら生き抜けるか。運命共同体の一員。
・貫かれる平等の精神ーひょうたん島の民主主義=住人は、男も女も大人も子どもも、ライオンくんさえも共に生きる一員として平等だった。

印象的な歌もあった。
 「勉強なさい 勉強なさい」
 大人は子どもに命令するよ「勉強なさい」
 えらくなるために
 お金持ちになるために
 アーアーアーアー そんなの聞き飽きた

それに対して、サンデー先生は、
 「人間になるため、さあ勉強なさい!」
すごい教育論だよね(^_-)

そういえば「ひょうたん島」がはじまる前に「ものしり博士」という番組があった。熊倉一雄さんの「ケペル先生」が、「やあ、こんばんは。元気かね?なんでも考え、なんでも知って、なんでもかんでもやってみよう!」と出てくる。
これもしっかり小学生なりたてでみてたけど、この番組の担当者もこの武井さんと知って、またまたびっくり。

しかし、ほんと、当時の教育番組のレベルは時代をリードしてたなあ。しみじみ。2016年1月21日


https://www.youtube.com/watch?v=gJlZnlsJGlg



北教ゼミの想い出 2016.3.23

むかしむかし未来の教師をめざす学生たちの全国教育系学生ゼミナール(全教ゼミ)のもと、ブロック毎にも大会があった。
いろんな資料を開けているうちに、こんな報告集を見つけ(^_-)
わたしの担当したのは北信越の北教ゼミ。
1980年11月21日~24日(へえーー4日間もしたんだ)
記念講演の清水寛さんとの出会いが、障害者問題へ本格的に向き合うようになる。いまは昔の物語(^_-)

テーマがいいな。
 80年 迫り来る嵐に抗して
 はぐくもう未来の教師の力量を
 ひろげよう 連帯の輪を

2016.3.23

2016-12-09

還暦KANREKI新聞 2016年6月3日

「還暦KANREKI新聞」は、明日発行されます(^_-)
今年の目標の一つの、高校新聞部の同期たちの「還暦新聞」発行と「還暦合宿」は明日、那須高原です。一期後輩の4人も先輩たちの還暦を祝おうと全国から合流するとか。

連休明けからコツコツと原稿を督促しつつ校正して、11ページものの大作になりました。みなさんにもお裾分けしたいところですが、プライバシーバレバレでかつ赤裸々なので非公開m(_ _)m

それぞれの60年のあゆみ。いろいろあるけど、大切に愛しみたいですね。

2016年6月3日

小野隆二さんの言葉 2016年6月6日

6月はかなしい季節だ。
6日は恩師・片桐和雄先生が、そして、7日は大好きだったあかつき園園長・小野隆二さんの命日だ。
64歳で亡くなったは2001年だから、79歳になるおふくろと同い年だったんだ。

「かなしいけれど、人間のからだは、いつかは消えていく。
けれど、その意志は、わたしたちが継承することによって永遠となるのだと思った」 2016年6月6日



山﨑さんの3年目の命日 2016年6月9日

6月9日も忘れられない日だ。

2013年は白夜の北欧を旅していた。
そのときのおもいを記録しようと『北欧=幸せのものさし』の「おわりのはじまり」に次のことを書いた。
今日は山﨑厚子さんの3年目の命日だ。

----
 東京の葛飾区に、知的障害のある若者たちの〝たまり場”「ぽむぽむ」がある。リーダーの山崎厚子さんが「緩和ケア」を利用していると聞いていた。

 「いまコペンハーゲンです。山崎さんたちといっしょした初めての旅から20年。北欧もどんどん変わりますが、変わらないものを見つめて」と旅の途中でメールした。
 「わあ、いいな! あそこからはじまったのよ、ぽむぽむも。疲れすぎないようにがんばってくださいね」と返信があった。

 帰国した翌日。「今日の3時頃おみやげ持ってあそびに行こうと思うけど、いいですか?」とメールした。返信はなく、しばらくしてケータイが鳴った。
 「娘です。母は今朝亡くなりました。昨日まで数日自宅で過ごしていましたが、昨晩呼吸が苦しいというので、病院に戻りましたが、今朝」

 山崎さんには、ぽむぽむの実践報告を『障害者問題研究』誌にお願いしていた。
 通夜で、論文を共同執筆した娘さんから、
「病室にいることを忘れてしまうような、まるで大学のゼミの課題を仕上げているような雰囲気でした。そんな中で印象的だったのは、母が〝この論文をとおして、また新しい発見があった”〝失敗やまちがいをおかしても、やりなおせる場所がぽむぽむだ。あなたたちにも覚えておいて欲しい”と言っていたことです」と聞いた。


 帰宅するといっしょに参列していた妻が、「よかったわね。原稿をお願いして」と言った。洗面所で涙がとまらなくなった。

 前著『北欧 考える旅』をまとめた2009年以降、親父や義母を看取り、恩師や親友、先輩たちの死に直面して、生きているいのちの重みを感じている。

 倶会一処(くえいっしょ)「倶(とも)に一つの処(ところ)で会(あ)う」は、義母が生きた北陸の教えだが、人間の身体は消えていくけれど、その志は、それを受けつぐ者たちのなかでつながっていく。

2016年6月9日

秦安雄さんを偲ぶ会 2016年7月30日

明日は秦安雄さんを偲ぶ会が名古屋であります。
秦さんは、日本福祉大学名誉教授で全障研副委員長やきょうされん顧問、ゆたか福祉会理事長など、障害のある人の労働と発達について研究と実践・運動をリードしました。

個人的には、全障研出版部の経営委員長として、いつも静かに会議に参加してくれながら、ときどき、すごくほめてくれました。「みんなのねがい」連載の時も、それを単行本にしたときも、じつにときどき、でも、ほんとにこころからほめてくれた。すごく自信になりました。

1931年1月生まれ。満州事変から戦争がどんどんふくれあがる時代。敗戦直前の8月7日には、学徒動員先の愛知の豊川海軍工廠で爆撃を受けながらも助かるなど、すごい体験をくぐられています。

役目柄、秦さんの足跡のスライドを作成しているのですが、
・戦争の時代は絶対に許してはならない。
そして、
・障害者は、働く中でたくましく、人生を豊かに生きていける。すべての人の人権と発達の保障を
とおもいます。 2016年7月30日


事務局長30年 2016年8月6日

第50回全国総会で一言ご挨拶をさせていただきました。
わたしにとっても大きな節目となります。
引き続き精進したいとおもいます
ーーー
29歳で事務局長に任ぜられ30年。
過ぎてしまえば一瞬とも感じますが、でも 、会えばいつも 「みんなのねがい」増やしとるか?「みんなのねがい」増やさんとあかんでといってくれた田中昌人初代委員長。組織とはなにかを後ろ姿で教えてくれた第三代委員長の茂木俊彦さん。加藤直樹さんには集団とはなにかを、秦安雄さんからは経営を実践的に教えていただきました。常任委員のみなさん、専従の仲間に支えられて、ちょっぴり支えて来れたことは幸せでした。

私事ながら、第19回の奈良大会の準備で再会した同級生と縁あって家庭を持ち、大会の保育で育った今年26歳の一人娘も初レポートを報告します。小さな幸せです。

ほんとうに大変な時代です。全障研の経営もまたとっても大変ですが、微力ながら副委員長という新しい任務で、精一杯がんばりたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いいたします。2016年8月6日

あざみのおもいで 2016年8月27日

やどかり出版の「響き合う街で」78号
巻頭言「街角から」に寄せた「あざみのおもいで」(^_-)

わたし的には、全障研事務局長名での最後の原稿となりました。
2016年8月27日

還暦の日に

昨日と今日の自分はほとんど変わっていないのに「還暦」となった。
60歳の自分を、17歳の自分はまったく想像できなかった。
オリンピックの年(1964年)に脳卒中で倒れた祖父はずいぶん「じいさん」だったが、それだって53歳だ。なんだろうこの歳月の猛烈な速さは。

「人間50年~」と最後の舞を舞った信長が本能寺で亡くなったのは49歳。「平均寿命」は、0歳児が平均してあと何年生きられるかを表した指標のことで「平均余命」ともいうらしい。


明治の1890年代では男子43歳。それが50歳となるのは戦後の1947年。「65歳」は1960年。「80歳」をこえるのは2014年のことだ。

ちなみに、わが60歳の「平均余命」は「22.06」。計算上の平均だけれど、長いのか短いのか。

いずれにしても今までまったく意識しなかった「ゴール」を感じながら生きるということなのかな。
2016年9月9日

アピール 障害者も一緒に、すべての人たちのいのちが輝くインクルーシブな社会を 2016年9月28日

本日のJD緊急企画。相模原事件を考える緊急ディスカッションでの集会アピールです。
多くの人びとにお知らせください。
以下は、わたしの閉会あいさつです。(2016年9月28日)

---
本日は、会場にたくさんの300人のご参加、本当にありがとうございました。

とてもかなしくて、怖ろしくて、おぞましくて、イヤでイヤいたたまれないような事件ですが、今日のようにみんなと話し合う中で、問題の本質を考えられる気がいたしました。

私は、先週、北欧・デンマークを研究会の活動で訪ねていました。藤井代表からは、北欧の人たちはこの事件をどう考えているのか聞いてくることの「特命」を受けていました。

デンマークの特別支援学校の校長、ペタゴー(生活支援員)養成大学の准教授にも聞きましたが、日本でデンマークの ニュースをほとんど聞かないのと同じように、デンマークでも日本のことはほとんど知られていませんでした。

ですが、JDの見解、英訳もされて世界に発信していましたので、これをプリントアウトして、会う人ごとに伝えました。

スカナボーという人口3万人の湖に囲まれた美しい町で、200人の重い障害のある人たちが700人のスタッフの支援のもとに、14のグループ住宅で暮らしている「田舎町スーロン」があります。その副施設長・トリーネさんが次のように話してくれました。

・絶対にあってはならないことです。
・どういう人であっても命を奪うことはあってはならない
・スーロンに暮らす毎日支援が必要な人は、外からみれば、生活もできない人と思われるかもしれません。
・でも、一人ひとりは生きている。違った人格をもち、支援する私たちのほうが学ぶことがあるのです。
・「社会にはいらない!」と一つのグループを殺し始めたら、つぎ はどんなグループが殺されるの?殺されつづけてしまう。恐ろしいことです。

どんなに重い障害があっても一人ひとりのいのちの絶対的価値を守る。これは北欧でも日本でも、たとえばバンク-ミケルセンや糸賀一雄など、多くの先輩たちが守ってきたいのちのバトンです。

トリーネさんが言うように、「社会にはいらない」人をつくってしまったら、次にはどんな「いらない人」がつくられるでしょうか。

すべての人びとが安心して生きられる社会を!
そのために、一人ひとりが考え、つながって、努力しあいたいとおもいます。
みなさん、ごいっしょに、ともにがんばりましょう!

追悼 津田充幸さん 2016.10.26

兵庫の津田充幸さんが亡くなられたとメールが届く。
とても、かなしい。さみしい。
気丈な先輩だった。そして優しかった。
「ちゃんとやっているか」「がんばってや!」
甲高い声が聞こえてくるようだ。

JD「すべての人の社会」2016年5月号に津田さんのことを書かせていただいた。わたしの本『北欧=幸せのものさし』に勇気をもらったと言ってくれていた。
本当に、ありがとうございました。
(2016年10月26日)
ーーー
■視点 津田充幸『戦後70年目の日記』に学ぶ
NPO法人日本障害者協議会副代表 薗部英夫 

津田さんは神戸大学附属養護学校の副校長だった。実質総責任者だ。国民学校1年生の夏に終戦をむかえた。2年前に父は病死。長兄は平壌、次兄は学徒動員で台北に、いずれも消息不明。「大戦が終わってから、海外に出かけ"殺し、殺される"戦争に加わらなかったのは、憲法9条があったから」「9条を守り、守られて、古稀迎え…」と綴る。

津田さんが「難病」になったのが2003年。筋肉の炎症から筋肉が溶けていく進行性筋疾患だ。
「残りの人生をあなたは何がしたいのか。何がやりたいのか。できないことばかり考えてないで、今の状態でできることを最大限にいかすために何が必要なのか、考えてみようではないか」という主治医のアドバイス。
「デンマークにあるのは、一人ひとりが具体的に何がしたいのかというニーズの把握と支援だ」という友人の言葉に勇気がわいた。
 
現在は有料老人ホームで、いうことをきく右手の3本の指と、左手の親指の4本でパソコンのキーボードを動かし、1年がかりでこの「日記」をまとめた。「戦争をしてはならない」という理念は永久に変えてはならない!と。

「阪神・淡路大震災20年 大震災が教えてくれたこと」には、戦後50年、「この国は、何をめざして、何をしてきたのか」が問われたと指摘している。

1995年1月17日午前5時46分の大震災。翌朝、津田副校長は自宅のある尼崎から学校のある明石へ煙のまだ上がっている神戸の街を歩いて向かった。学校の基本となる「いのちの尊さ、生きることの意味」を考えた。

「騒々しいところではパニックになるんです。避難所では走り回って怒られっぱなし、とてもいられない」と自閉の子をもつ母親。「この子を車に乗せて、夜中走り回ってました」という父親。「外に出られないので家の中で暴れています」という祖母は、一日も早い学校の再開を訴えた。再開にあたっては教職員一人ひとりが、家族のことなど個別の困難を抱え、時間をかけた率直な話し合いがもたれた。

「信号の壊れた四つ辻では車は止まり、のろのろと走っていた。人を思いやる気持ちにあふれていた。給水のとき、代替バスを待つときも長い行列をつくったが、知らない者どうしが、前からのつきあいがあったかのように声をかけあった。困難なときに、人は人を求めあうのだろうか」「"服装、持ちもの、遅刻"など校則という名の"きまり"ごとも、人のいのちと、人のつながりあうことの大切さを前にして、一瞬ではあったが吹っ飛んでしまった」「何事もお伺いをたてなければことのすすまない学校にも文部省(当時)はいきなはからいをみせた。"迅速に、弾力的にことを運べ"と、学校独自の判断にまかされた」。

学習発表会の練習にかかったときの震災であったが、「こんなときだから、やめよう」でなく、「こんなときだからこそ、やろう」と余震の続く中で練習を始めた。雪山合宿も少し日をずらして実施した。「日々の確かな教育実践に支えられた教職員集団の自治の力が、さまざまな困難をのりこえたのだと思っている」と書かれている。そして、「あの震災は、"学校はいつもちゃんとやっているか"と問いかけたのではなかろうか」とも。

2011年春には東日本大震災・原発事故があった。そして、この4月、熊本などで大きな地震があった。試練の歴史のなかで、先達たちの大きな声援が聞こえてくるようだ。

30年ぶりの再会 2016.11.5

結婚式以来30年ぶりに会う友もいれば、10年ぶり、
久しぶりの面々も集まっての高田馬場の飲み会。
青春真っ盛りの時間と場を共有した金沢時代のともだちの話は、
些細な枝葉に話は飛んで、時間はあっという間に最終高速バスの時間になった。

また会おうな!と握手して別れたけど、
「またな」という時間は意識しないと永遠かもしれないぞ。
まあ、それでも「また元気でな」(^_-)

PS 人の記憶(とりわけ自分の記憶)というのはじつに都合よく忘れるものらしい。
自分が人生最大の「選択」を決断しなければならない場に同席していたという友は、
4時間ずっと考えてたよなあ」。
その記憶はほぼ40年ぶりにかすかに想い出したけれど、

今にしてみれば人生最大の(オーバーですが)「選択」の場面を、
ほとんど忘れられている自分のふてぶてしさも、たいしたもんだな
(2016年11月5日)