2016-12-09

茂木俊彦さんを偲ぶ会 2015.11.30

今日は9月25日に亡くなられた茂木俊彦さんとのお別れの会でした。
300人の参加者のもと、呼びかけ3団体(民研・全障研・全教)3人の代表の弔辞やスライド映像、教育学者の堀尾輝久さん、JD代表の藤井克徳さん、茂木さんのもとで学んだ福島智さんら6人のお別れの言葉、そして奥様からご挨拶を受け、それぞれの想い出とあわせて、同時代にいっしょに活動できたことに感謝し、そのタスキをつないでいく人生の活動の決意をあらたにさせてもらいました。
実行委員会を担当しました。正直自分のメンタル管理含めてなかなか重たい任務でしたが、集団の力で、こころあたたまる気持ちのいいつどいになったことに感謝しています。
そして、なによりも、茂木さん。
みんな茂木さんが好きでした。
ほんとうにありがとうございました。
しおりに印刷させてもらった、若者たちへのメッセージ(卒業式式辞)を読んでいます。(2015年11月30日)
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東京都立大総長時の卒業式式辞より 2005年3月25日
 私はみなさんにどんなことを期待したいか。それはまず枠組みから言えば、地球規模で発生したこと、発生していること、これから発生するであろうことに、つねに目を向けながら生きてほしいということです。
 現代における戦争、自然災害その他、すでにそれ自体で私たちの目をそれに向けさせるような強烈なインパクトがあります。しかし、何となくそれらを見るというだけでは、私たちの個々の生き方にまで影響が及んでくるわけではありません。それどころかバーチャルな世界を見ているかのような錯覚さえ惹起することもあり得ます。ですから私たちはそのようなことを自覚的に見る、考えるということをしなければならないのではないか、ぜひそうしてほしいと思います。
 そのうえで注文があります。その場合、そういう場で生きる、いわゆる『社会的弱者』について、その息づかいをも感じ取る仕方で知り、考えるように努めるということであります。
 私の場合、学生時代から約40年間、障害のある子どもや青年の心理と教育の問題を研究してきました。とりわけ最初は、こういう人々に関する客観的データの収集と分析を行うことはしても、よろこびや悲しみなどの感情の問題にまでは考えがおよびませんでした。
 しかし、彼らと頻繁に交流していくうちに、自分の視点からこの人々を観察しているだけではいけないのではないか、視座、視点をこの人々の側に移し、世界を見る、感じる、それについて考えるということを意識的にしなければならないのではないか、と考えるようになりました。
 さらに、おそらくそれだけでは足りないのであって、それを媒介にして、再び問題を自分に返すということをしなければならないのではないか。このように思うようになりました。つまり結局のところ、障害のある人々との関係において、自らの位置を見定め、自らの生き方を考えるということです。
 残念ながら、今でも私はこれができていると胸を張って言える状態ではありません。努力しなければと、時々思うに止まっているというのが真実です。そんな状態でありながらみなさんに注文するのです。
 『社会的弱者』は、ほんとうにさまざまであり、また多数います。私個人で言えば、今述べた障害のある人々だけでなく、子どもという存在自体がこのカテゴリーに含まれると考えています。
 子どもは保護されるべき存在であり保護を求める権利を有します。しかし同時に、大人と同じ市民的な権利をもち、それを行使する権利をもつ主体です。これは子どもの権利条約において国連とわが国を含むその締約国によって確認された考え方です。
 しかし、子どもはやはり『社会的弱者』です。そして現実にはもともと『社会的弱者』である子どもたちの中に、さらに『弱者』が存在します。
 かならずしも『子ども』に目を向けなくてもいい。別のグループでもいい。大括りにして『脅かされている民衆』と言ってもよい。先ほどいったように、そういう人々の息づかいをも感じ取る仕方で、これらの人々に目を向け、それとの関係で自己の位置を見定め、生き方を考えることをしてほしいと望みます。

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