2016-12-09

追悼 津田充幸さん 2016.10.26

兵庫の津田充幸さんが亡くなられたとメールが届く。
とても、かなしい。さみしい。
気丈な先輩だった。そして優しかった。
「ちゃんとやっているか」「がんばってや!」
甲高い声が聞こえてくるようだ。

JD「すべての人の社会」2016年5月号に津田さんのことを書かせていただいた。わたしの本『北欧=幸せのものさし』に勇気をもらったと言ってくれていた。
本当に、ありがとうございました。
(2016年10月26日)
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■視点 津田充幸『戦後70年目の日記』に学ぶ
NPO法人日本障害者協議会副代表 薗部英夫 

津田さんは神戸大学附属養護学校の副校長だった。実質総責任者だ。国民学校1年生の夏に終戦をむかえた。2年前に父は病死。長兄は平壌、次兄は学徒動員で台北に、いずれも消息不明。「大戦が終わってから、海外に出かけ"殺し、殺される"戦争に加わらなかったのは、憲法9条があったから」「9条を守り、守られて、古稀迎え…」と綴る。

津田さんが「難病」になったのが2003年。筋肉の炎症から筋肉が溶けていく進行性筋疾患だ。
「残りの人生をあなたは何がしたいのか。何がやりたいのか。できないことばかり考えてないで、今の状態でできることを最大限にいかすために何が必要なのか、考えてみようではないか」という主治医のアドバイス。
「デンマークにあるのは、一人ひとりが具体的に何がしたいのかというニーズの把握と支援だ」という友人の言葉に勇気がわいた。
 
現在は有料老人ホームで、いうことをきく右手の3本の指と、左手の親指の4本でパソコンのキーボードを動かし、1年がかりでこの「日記」をまとめた。「戦争をしてはならない」という理念は永久に変えてはならない!と。

「阪神・淡路大震災20年 大震災が教えてくれたこと」には、戦後50年、「この国は、何をめざして、何をしてきたのか」が問われたと指摘している。

1995年1月17日午前5時46分の大震災。翌朝、津田副校長は自宅のある尼崎から学校のある明石へ煙のまだ上がっている神戸の街を歩いて向かった。学校の基本となる「いのちの尊さ、生きることの意味」を考えた。

「騒々しいところではパニックになるんです。避難所では走り回って怒られっぱなし、とてもいられない」と自閉の子をもつ母親。「この子を車に乗せて、夜中走り回ってました」という父親。「外に出られないので家の中で暴れています」という祖母は、一日も早い学校の再開を訴えた。再開にあたっては教職員一人ひとりが、家族のことなど個別の困難を抱え、時間をかけた率直な話し合いがもたれた。

「信号の壊れた四つ辻では車は止まり、のろのろと走っていた。人を思いやる気持ちにあふれていた。給水のとき、代替バスを待つときも長い行列をつくったが、知らない者どうしが、前からのつきあいがあったかのように声をかけあった。困難なときに、人は人を求めあうのだろうか」「"服装、持ちもの、遅刻"など校則という名の"きまり"ごとも、人のいのちと、人のつながりあうことの大切さを前にして、一瞬ではあったが吹っ飛んでしまった」「何事もお伺いをたてなければことのすすまない学校にも文部省(当時)はいきなはからいをみせた。"迅速に、弾力的にことを運べ"と、学校独自の判断にまかされた」。

学習発表会の練習にかかったときの震災であったが、「こんなときだから、やめよう」でなく、「こんなときだからこそ、やろう」と余震の続く中で練習を始めた。雪山合宿も少し日をずらして実施した。「日々の確かな教育実践に支えられた教職員集団の自治の力が、さまざまな困難をのりこえたのだと思っている」と書かれている。そして、「あの震災は、"学校はいつもちゃんとやっているか"と問いかけたのではなかろうか」とも。

2011年春には東日本大震災・原発事故があった。そして、この4月、熊本などで大きな地震があった。試練の歴史のなかで、先達たちの大きな声援が聞こえてくるようだ。

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