渡良瀬川と利根川が合流する小さな町。
友人の通夜に今夜参列しました。
彼が写っている写真を古いアルバムで見つけて奥さんに渡しました。
会場には、高石ともやと一緒の笑顔の彼の写真と歌が静かに流れていました。
◆◇◆
一昨日の月曜日、イヤな夢で、朝早く起きると外は雪。
いつもより早出でバス停にむかうと、友人からケータイに着信記録がありました。
イヤな気がして、折り返し電話すると、高校時代から兄弟のようにつきあっていた友人が今朝亡くなった。
ここ3年ほど、悪質な肺の病気の進行で、呼吸がどんどん苦しくなっていたのです。
朝4時34分、永眠。
***
中学の頃はライバル校のサッカー部(HB)で、選抜チームの陸上では400メートル選手。
まったくわたしと同じポジションで、郡単位の競技会では、いつもあと少しのところで彼に負けていた。
男だけの地元の高校に入学すると、新聞部でいっしょになった。
授業よりも、家に居るよりも、休日問わず、ほとんど部室で一緒だった。
わたしは活字重視の硬派の編集長。彼は地域の高校(おもに女子校)をつなぐ組織者。
けっこう対立したのだけど(高校生なりに熱く)、ひよっとするとお互い違うものを一番認め合っていたかもしれない。
卒業後、わたしは浪人。彼は働きながら夜学に通った。子どもたちに希望を語る教師になりたい。
彼の下宿のあった東京・小岩には、新聞部の仲間がよく集まった。
ガンガン飲んで、激論(たいしたテーマでもなく)してたある日、風邪を引いていた彼が高熱を出し始めて、みんなで、おんぶしたりしてわっせわっせと病院に運び込んだ。椎名誠の私小説の世界を実体験してた。
彼につれられて、有楽町の読売ホールで聞いた高石ともやコンサートはよかったな。
好きだった彼女にふられたといえば泣き、結局、一つ年下の女子校の彼女と結婚が決まれば、やっぱり泣いた。
そして、彼は、努力の末に、地元の小学校の教師となった。
希望を語る伝説の名物教師となった。
***
それから30年はあっという間だ。
1週間ほど前、新聞切抜の整理をしてたら、高石ともやの連載のインタビュー記事が目に入ったので、隣町にある渡良瀬遊水池のグラビア写真といっしょに送った。
彼はその手紙と記事を読んでいたそうだ。
◆◇◆
添付の写真は1980年、夏の奥能登。
友人たちは、東京から名古屋経由でクーラーもないオンボロ車で金沢にやって来た。狭い車に男5人で北陸を愉快に旅した。
写真左が今日の通夜の彼。
真ん中の友人は血液の病で20代後半に亡くなった。一人で農家を切りもりするお袋さんを助けるんだと獣医をめざしていました。彼の命日は1月3日。
この日はなにがあっても8人となった新聞部の仲間は墓前に集まりました。今年は30年目。
ちょっとばかり先にいった二人は、天下国家を熱く語りながら、若い子にナンパして、あいかわらずふられてるとおもうことにします。
通夜の会場に静かに流れていた高石ともや歌う「私の子どもたちへ」
生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を
あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは
3.11後の、それも暴走政治のこの国で、生きている私たちは重いバトンをリレーする。
高石ともやのCDをガンガンにして、歌いながら帰る道すがら、空っ風はやんで満天の星。
(2013.1.31)
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