山澤清さんは2009年10月6日に郷里の松山で亡くなられた。享年72歳。
道後温泉の酒屋さんで次男として生まれ、
生後五か月頃、日本脳炎に罹患し、四肢不随意運動性脳性マヒとなった。
法政大学哲学科で乾孝、谷川徹三に学び
早稲田大学で心理学修士を、東京教育大学で肢体不自由教育の博士課程を学び、
78年からは家業を手伝いながら愛媛大学で研究生、聴講生として
研究活動を継続した。
愛媛大学の渡辺弘純さんがまとめた「追悼集」には
31名のなかまが「思い出の記」を寄せている。
わたしもつぎの一文を寄せたが、
山澤さんの障害の原因が日本脳炎に罹患したことからだったことを
はじめて知った。
小さい頃、わたしの3つ下の妹は、その病で亡くなっている。
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5月が終わる頃になると、山澤さんからメールが届いた。
「四国・道後に住んでいる,山澤清です.ご無沙汰しております.
東京医科歯科大学歯学部付属病院障害者歯科外来で私は,
また歯の診療をしていただくなどのために,上京いたします.
歯の診療を受けた後でないと,今度の私の上京中の予定が分かりません.
今度の私の上京中も,あなたはお忙しいし,私もあわただしいので,
お会いする機会がないかもしれません.上京しましたら,
全障研事務局にお電話をさし上げます.その時に,
お声だけでもお聞かせください.
では,上京しましたときに.
山澤 清 Kiyoshi YAMAZAWA」
そして、山澤さんは、ニコッと満面の笑顔で全障研の事務所を訪ねてくれた。
もちろん、お土産はかかさない。
だいぶ前は「坊ちゃん団子」だったが、いつの年からか、
わたしが美味しい!と言ったからか、「しょうゆ餅」が定番になった。
いつもにこやかだった山澤さんが、厳しく意見をくれたのは、
障害のある人とICT(情報通信技術)関連の
わたしの論文や著作を読んでくれたときのことだ。
研究論文に対する姿勢は、どこまで「追求の徒」だった。
2009年の晩秋、
わたしは山澤さんがすでにいないことも知らずに、松山にいた。
全障研や障全協、きょうされんの四国各県のメンバーなど
80名の集った交流集会があり、突然のピンチヒッターで
「障害者自立支援法と障害者権利条約 北欧と日本 やさしい社会の条件」
を講演していた。
集会後、はじめての道後温泉。
風呂上がりの一杯のお茶と一串の「坊ちゃん団子」。
そして「坊ちゃんの間」から見える柳がゆれて、
時間がゆったりと流れていた。
山澤さん。
しょうゆ餅食べながら、ゆったりともっと語り合いたかった。
”だんだん”
総括シリーズ、パトリック・ガンパー
8 時間前
2 件のコメント:
山澤清の甥です。
追悼文集に寄稿いただきありがとうございました。
こんなにも多くの方が寄稿いただけるとは思っていなくて、家族みんなで感謝しております。
もし、また道後にいらっしゃることがあればお訪ねください。
山澤満さん
コメントありがとうございました
(気づいていなかったので
お礼が遅くなりました)
先輩の知り合いで紹介されて、
毎年、会いにきてくれるのが
当然のような感覚でいましたが、
声もきけず、
会えなくなるのは、
さみしいですね。
道後は、風まで優しく吹いてて
いいところですね。
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