2008-07-30

ヤシカエレクトロ35を知ってますか?


めちゃくちゃ忙しい。
本業の全国大会を2週間後に控えて、年間でもっとも仕事が集中している。
そのうえに、権利条約がらみの意見書づくりや、自立支援法訴訟の情報発信などなど
さらには、すんでる町の市長暴走によるイオン誘致への、地域住民(わたしも)と商工会など市民大連合によるイオン反対運動などなど
いやああ、身の細る間もないとはこのことだ(~_~;
といいつつ、夜中にこんな駄文を書いてるんだから、まだ大丈夫そうだ。

表題(写真)のヤシカ・エレクトロ35は、私が高校生のときにはじめて買ってもらったカメラだ。
京都への修学旅行で、24枚撮りのカラーフィルムを1本だけ入れて、どきどきで写真青年してた。

このカメラが、実家のすみに眠っていたのを偶然発見。
それがけっこう現役で動く(^_^)b

>YASHICA ELECTRO35
>ヤシカの35mm電子制御式レンズシャッターカメラ。1966年発売。
>キャッチフレーズは「ローソク一本の光でも写る」「落としても壊れない」。
そうそう、暗いところが得意で、でも落としたら壊れるよなあ・・・

>エレクトロ35で培った技術は、ヤシカ(現京セラ)によるCONTAXの基盤となった
わたしが大好きだったCINTAXとつらなるわけね・・・運命の糸か・・・なるほどねえ。

2008-07-22

宮崎駿「崖の上のポニョ」のヒューマニズム


宮崎駿が原作・脚本・監督をやむにやまれぬ思いでしなければならなかった映画はとびきり優しい。
「生きててよかった」がメインテーマだが、
そう感じられるためには、たっぷりの愛情が注がれなくてはならないのだ。

トトロのメイは4歳児だった。
今回、さかなの子の「ポニョ」も主人公の宗介も5歳児だ。
「外からの支配」によってでなく、わが「内からの力」として「独立した」判断をしめせるのだ。
だから約束は守る!

この映画、いたるところで、主人公は抱きしめられる。
それは、母であり、ポニョであり、保育所の隣にある高齢者ホームのおばあちゃん。
美しい自然を背景に、人は人の愛情のなかで大人になっていくのだ。
そのごく、あたりまえのことが、そうではなくなっている現代日本への猛烈なカウンターパンチだ。
しかし、映像は、涙が出るほど、かぎなく優しい。

以下、主題歌の一部だけれど、じつに深く哲学的だなあ。
手は「つないじゃお!」のための手なんだねえ・・・しみじみ
---
ポーニョ ポーニョ ポニョ さかなの子
青い海からやってきた

ペータペタ ピョーンピョン
足っていいな かけちゃお!
ニーギニギ ブーンブン
おててはいいな つないじゃお!

2008-07-06

障害者・患者9条の会3周年つどいは多磨全生園

障害者・患者9条の会「人権と平和を考えるつどい」を9月6日(土)に企画している。
 http://www.nginet.or.jp/9jo/index.html
シンポジストは3人だ。

平沢保治さんと初めて会ったのは、20年も前のことだな。
新宿駅の西口に、チリ~ンと鐘の音が響いていた。
その横で、ビラを脇に挟んで、不自由な手で、だけど、じつにあざやかに、
街ゆく人びとに訴えのビラを手渡していた。
わたしもいっしょにビラまきの人になったけれど、
小さな鐘を鳴らしていたのは、もっと不自由なハンセン病回復者の人たちだった。
社会に訴えねば!
静かな鐘の音と気魄のこもったビラ配布は、強烈な印象でこころに残っている。

岩佐幹三さんはイギリス政治史を教えていた。
授業には縁がなかったが、デモや集会ではおみかけした。
先生の苦悩を直接聞いたのは、卒業後これも20年以上もたった後のことだ。
中澤正夫『ヒバクシャの心の傷を追って』(岩波書店)に掲載されて詳細を知ったが、
16歳で被爆した先生は、自宅が燃え、生き埋めになった母親を残して逃げた。
数日後、焼け落ちた自宅の灰の中に、黒く小さな「物体」を見つけ、荼毘にふした。
「母は原爆によってモノのように焼き殺されたのである。(中略)
 母はジュジュ、ジュジュと音を立てながら燃えていった」
寂寞とした心境と自責の念。先生は見聞きしたことの多くは覚えていないのだそうだ。
「火垂の墓の映画をテレビでみていたとき、幼い餓死寸前の兄妹が手を合わせる場面をみて、
 自分のことが二重写しになったのか、思わず慟哭してしまったという」
そしていま、原爆症認定集団訴訟に全力でとりくむ日々だ。

吉川勇一さんは「べ平連」の事務局長だった。
「べ平連」がなんたるかを知らない人は・・・こまったなあ(^^;
そういう私もリアルタイムでは知らないのだけれど、
ウルトラセブンが宇宙からの怪獣を匿って救出する話がある。
あの話は鶴見和子さんらも関わった脱走ベトナム兵救出にとりくんだベ平連がモデルだと知って、
セブン=吉川?、アンヌ隊員=鶴見和子??などと想像したものだ(^_^)
 さて、敗戦の年は14歳。安保反対闘争で退学、平和運動へ。
生活費は予備校講師で稼いだ。その予備校の生徒だったわたし。
教えてもらったはずの英語のことはまったく覚えていないけど、
教養講座・アジア平和紀行の講演、その雰囲気はいまでも覚えている。
その吉川さんは「いい人はガンになる」(著書だけど)。
闘病幾度となく、障害者にも仲間入り。
「民衆を信ぜず、民衆を信じる」は、喜寿にまとめた論考集。

この3人が、国立療養所・多磨全生園で人権と平和について語り合う。
それだけでもわくわくするような歴史的なことではないか!
そして、そこに、わたしと、あなたがいる。そいつはすてきだ!(^_^)b

午前の資料館ツアーには
全生園の語り部のみなさんもご協力いただけるとのことですよ。