2013-04-27

2008年04月26日 映画「夕凪の街 桜の国」 みごと!

2008年04月26日
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 映画「夕凪の街 桜の国」 みごと!

カテゴリ:映画・TV
カミさんは地域で6月に上映会をするのだそうだ。
「感想聞かせてよ」というので、3月に買ってたDVDを見ました。
ちょっと予想外で、完全にひきこまれました。
最近のベスト1作品です。

1958年生まれの佐々部清監督に脱帽するのは、
情感迫る映像、ハープの調べに加えて、
時間、歴史の連続性のこころ憎い設定です。

舞台は昭和33年の広島とそれから50年後の東京と広島。
被爆後13年という時間と、それから50年という時間の設定は、
被爆時と現在とを連続的なもの、つながっているものとしての感覚をうみます。
これがいっきに戦後63年だと、現在と「過去」になってしまって、
つながりが感じられなくなっちゃう。
それが13年、そして+50年という時間設定で、
被爆者と今のわたしとがリアルにつながるんですね。
これは驚きでした。

さて、昭和33年。
「もはや戦後ではなく」、東京タワーは建ち、高度経済成長の前夜。
「新しい市民球場ができた」と喜ぶ広島の真ん中を流れる太田川。
その川にせり出したバラックの長屋には「不法占領禁止」の立て看板が見える。

防火用水を見ると思わず手を合わせる皆実(麻生久美子)は、
母親(藤村志保)と二人で暮らしてる。
なぜ手を合わすのかは、ドキュメント映像ではなく、被爆者の描いた絵でわかります。
父と妹は被爆直後に亡くなり、疎開していた弟(伊藤充則)はそこで養子になった。

夕焼けを見た皆実(みなみ)は自問する。
「きれいだな。楽しいな」と感じていいんか。「この世におってもいいんかね」

そんな彼女に恋が。「生きててくれてありがとう」と彼は言ってくれた・・・
でも、発症。美しい一人の女性の未来は奪われた。

それから50年後。
見覚えのある電車と思ったら西武線の「恋ヶ窪」駅だ!
定年退職した弟(堺正章)は元気いっぱいの娘の七波(田中麗奈)と
喘息発作に苦しむ小児科医の息子(金井勇太)と暮らしている。

ある日、一人ないしょででかけていく父をつけると、七波も広島に行き着いた。
そこで祖母(藤村)、伯母(麻生)、
そして胎内被曝児だった母(栗田麗)へと思いをめぐらせる・・・

この手の作品は、正直なかなか難しいことが少なくないのだけれど、
不思議な時間と空間の設定によって、過去と現在の物語がコラボする。
だから、昭和33年を懐かしく感じられる人も(^_^)、
老いも若きも、同時代に生きているものの感覚で共感が広がりますよ。

わたしの娘には受験勉強を休んでぜひ見てもらいたい。
最近とみに涙腺の弱くなったカミさんは、タオル3枚持参です。

2008年04月12日 井上ひさし『ボローニャ紀行』

2008年04月12日
 井上ひさし『ボローニャ紀行』        
井上ひさし『ボローニャ紀行』文藝春秋
がすこぶるおもしろい!

世界最古の大学はボローニャ大学。
1088年というから、日本は平安時代だ。
卒業生には、ダンテ、ペトラルカ、エラスムス、コペルニクス・・すげえ(^^;)

でも、もっとすごいのは、この大学には校舎がなく、
学生は教授の家に押しかけたり、広場、教会で教えを請うたと。
(校舎ができるのは1563年で、ガリレオはその校舎で学んだらしいとか)

このボローニャ大学は、ヨーロッパ中からあつまった学生たちが
組合をつくって、管理した。
ラテン語の「ウニウエルシタス」は自治的な組合という意味で
英語の「ユニバーシティ」となるのだそうだ。

学生が教授を人選し、授業内容も給料も決め、
教授のつまらない授業には罰金をとり、
それでも改善されなければくびにする。学長も学生が選ぶ。

イタリアの都市国家の話だけど、
ヨーロッパってすげー文化だなあとしみじみ思わされますね。

この間のデンマークの話もそうだけれど、
こうした人間の営み、文化、思想、そうした上に、
人権の思想も福祉の思想もあるんだろね。

こんな下りもありました。

 国という抽象的な存在ではなく、目に見える赤煉瓦の街、
 そしてそこに住む人たちのために働く、
 それがボローニャの精神なのだ。

 

2008年04月08日 あなたの夢は

2008年04月08日
 あなたの夢は
       
4月7日、都内で
国際理解講座=世界一の福祉先進国デンマーク
があったので、参加しました。

講演は「デンマークの障害者福祉制度について」
片岡豊(エグモント・ホイスコーレ教員)さん
40分というおそろしく短時間ながら、コンパクトに
世界一の福祉制度ではないが、幸福度は世界一であろうデンマークについて
レクチャーしてくれた。

興味深かったのは、きょうされんの藤井克徳さん司会の60分のシンポジウム。
デンマークのエグモント・ホイスコーレという国民学校で学んでいる
○運動機能障害のある24歳の女性
(看護士養成学校では実習が受けることができず、中退。
 現在、いろいろ考えるためにエグモントで学んでいる。
 障害者年金は手取り1万クローネ(約20万円)一人暮らし、両親の購入の家に住む。

○知的障害のある29歳・女性
 障害児学校に学び、現在は、アパート(グループホーム)で暮らす。乗馬が趣味
 卒後、園芸学校に行き、エグモント卒業後はケーキ作りの会社に行きたいと決めている。

○未熟児で生まれ手足の運動機能マヒのある横浜の女性
 現在、作業所への通勤に往復3時間。一日3交替のヘルパー使い、自立生活する
 障害者年金は1級=月8万6千円、デンマークの3分の1

○中野のグループホームに住んで働く知的障害のある女性
 給料は月1万円+年金は2か月に一度支給される月6万6千円
 「働いてもお金(利用料=月3750円)払っているのはおかしいとおもう」

この4名の女性が、それぞれの夢を最後に聞かせてくれた。

デンマークの二人は、
○24歳は、「障害をなおすような治療を。それがかなったら、看護士になりたい」
○29歳は、「読み書きできるようになりたい。教育を受けて、たくさんの本を読みたい」

日本の二人は・・・
○電動車椅子の女性=「お金が必要なので、一般企業で働けるようになりたい」
○知的障害のある女性=「ともだちつくってなかよくして、仕事でも生活でもしあわせに」

デンマークの二人の夢は、人生を豊かにするという大きな広がりを感じる。
一方で、日本の二人の夢は、けなげであり、せつない。
その違いはどこからくるのだろうか。

2008年03月12日 卒業式で

2008年03月12日

 卒業式で                  

今日は娘の高校の卒業式。

格式ばかりで、こころに響く言葉がほとんどない「卒業式」は
自分の時代と比べても、なんだか時代が逆回してる感じがしたのだけれど、
生徒たちの自主運営による第二部企画に感動。
各クラスの生徒ら数名が担任に贈ることばが胸に響いた(写真)

「毎日、学校が楽しかった」
「すごくいいクラスで、明日からバラバラになるなんって実感できない」
「先生、転勤しちゃうんだって。でも、また会いにいきたい」
先生を少し茶化しながらも、じつによく観察していて、
自分たちへの人としてのやさしさの瞬間を的確につかんでいる。
生徒たちの率直な気持ちが伝わってきた。

いっしょに活動したPTA会長のあいさつは、
「君たちにはいつもみんながいる。
 友だちがいる!
 先生がいる!
 そしてわたしたち親がいる!」
と強調してた。

昨年、早期退職をした校長からの祝電には
「信念をもって自分の道をすすみなさい!」とあった。
いい学校で子どもたちは成長できたなあと実感できました。

スウェーデンの高校では、卒業式の後、
生徒たちの小さいときの写真を大きくしてプラカードにしてパレードする。
親たちが用意したオープンカーやトラクターの荷台に乗って
街をにぎやかにパレードするのだと聞いたことがあります。
18歳は大人。
大人になった、わが子をみてほしい!
そんなおもいからなのだろう。
気持ちがよくわかる。

自分の道を自分で歩きはじめた君たちの人生に乾杯!

2008年03月08日 饅頭は山々あれど

2008年03月08日

 饅頭は山々あれど

 先日、同僚が和歌山の白浜あたりでお土産に持って帰った「薄皮饅頭」
これは、甘さほどよいさっぱり味のあんこが薄皮にほどよくマッチして、
うまかったݤ

そんなおり、福島出身のこが柏屋の「薄皮饅頭」がいいというので、
こちらは会津出身の別の同僚に「しってる?」と聞くと、
「会津の薄皮饅頭が一番です!」と言う。

そういえば、岡山に帰省するこれまた同僚は、
「大手饅頭」というのを買ってきたことがある。

いずれも、こしあんであるならば、それはけっこうけっこうなのだが、

一番うまいのはどれ?と問われると、
やはり、わたしは、温泉饅頭。
それも、元祖、群馬・伊香保の階段を登りきったところにある温泉饅頭を第一としたい。
第二は、草津の温泉饅頭だな、やっぱ。
熱海もきらいじゃないけど、、、

ご異議あるかたは、反論を、理性的に展開してみてください(^_^)b
(それによって円高ドル安がどうなるってわけじゃないとおもうけど)

2008年02月15日 映画「母べえ」見事!

2008年02月15日
   

 映画「母べえ」見事!

昨日、ベルリン映画祭で高い評価を得たという「母べえ」。
ようやく、今晩の最終上映を家族でみることができました。
予想以上にすばらしい映画。感涙。
涙があふれて、しばらく立ち上がれなかった。

映画が終わった後に、いっしょにみていた
20人くらいの人たちに
「よかったよね」と声をかけようかとおもったくらい。

とりわけラストシーンが秀悦。
ソプラノの佐藤しのぶのボカリーズに
父べえの手紙朗読がみごとに重なる。

父べえ役の三津五郎さんが言っている
「一番失って大きいものは、ありふれた日常なんです。
 なくしてみて初めて気がつく。
 日常をくり返すことの幸せ、
 そして、これをまた失うことがどれだけ悲しいか」

1940年、昭和15年、東京・高円寺界隈。
父べえ(坂東三津五郎)、母べえ(吉永小百合)、
初べえ、照べえと呼び合う4人家族。
父がある朝突然、治安維持法で投獄される。
父が残した往復書簡から、家族の思いや生活のようすが
具体的に綴られていた野上照代さん(黒澤監督のスクリプター)
の原作は、
「ああ、こんな映画が撮りたかった」と山田監督に言わせたという。
そして、原作は、歴史に残る映画となった。

フィクションの映画のはずが、
映画のなかの時代と今の自分の現代とが一体化してしまうような、
映画の中の空気と同じ空気を今吸っているような、
実に不思議な、たまらない「場」をつくりだしてくれている。

だから、その時代の日本人がみごとにマインドコントロール
されているのもわかるし、
「御国のため」「贅沢は敵だ」「非国民!」
と思想統制される怖さと
じつは今の時代も、そうした意識構造は変わっていない日本人の
恐ろしさを感じることになる。

小百合さんは、この映画のために、
100作以上の映画に出てたんだねきっと。
かもしだされる温もりは、なんとも切なく、
けなげで、美しく、たくましい。

檀れいでなく、小百合さんに思慕する
浅野忠信の「山ちゃん」もいい。
赤紙には本籍地が「鶴岡市」と読めた。
鶴岡は庄内藩、「武士の一分」など時代劇3部作ともつながっている。

でも最高の役者は子役の二人だね。それを演出した山田洋次監督だな。
「歴史に学ばない人は再び同じ歴史を繰り返す。
 その言葉をいつも胸に刻みながらこの映画を作った」
(ベルリン映画祭にて山田洋次)

2008年02月04日 道はただ一つ この道をゆく 春

2008年02月04日
 道はただ一つ この道をゆく 春        
 
東京が今年2度目の雪の日、京都に日帰りしました。
新幹線は30分遅れだったけど、朝の6時に最寄りの駅にたどりつくまでが
ちょっとスリリングでした(^^;)

「朝早くは大文字山まで雪でしたなあ」とタクシーの運転手の言う京都はすでに小雨模様。
でも、京都支部40周年記念のつどい(「全障研と私たちの活動 過去・現在・未来」)
は熱気でした。

○自立支援法後、ケース検討をみんなでする場がなくなった。
 ”みんなで”子どもたちを見ていく場を
 ちゃんとつくらないといけない。
 実践は、子育ては、一人ではできない。
 一人一人の願い、おもいを
 みんなでもちよることが大切ではないか
 (若い発達相談員)

○月刊誌の「みんなのねがい」。わずか月550円が
若い職員にすすめるのに気が引ける・・・。
 それくらい職員は低賃金。でも7人で読者会開く。
 読んでると仲間の顔が浮かぶ。実践のヒントが得られる。
 制度に仲間をあてはめるのではなく、
 一人一人の願いをみつめることから始めよう!
 (中堅の職員)

○与謝の海養護学校ができる前。親の会で、教師は意見を聞き、
 いっしょに泣いた。話し合うことがとても大事だ。
 いろんなことがわかってくる。与謝の海では、
 校長から用務員まですべての人が職員会議にでて話し合っていた。
 (85歳の元教員)

そして元校長(80歳)の話。
○1955年6月4日京都でヘレン・ケラーの話を聞いた。
 「障害は不便ですが、不幸ではありません」
 「私が不幸であるならば、
  それは私をとりまく社会が不幸にしているのです」

その校長先生からゆずられた黄ばんだ一冊の冊子。
「地方自治と障害者のくらし」(全障研京都支部)

巻頭に、1971年のメーデーに共産、社会とスクラムを組む
蜷川府知事と市長がいる。

 道はただ一つ  
      この道をゆく  春
                 蜷川虎三

次のページは「憲法第25条」。
3頁から「京都の良さと障害者のいきがい」
<憲法を土台にして>
そして、
「自治体は、住民自身が住民自身の力で、
 自分たちのくらしを守る組織」とあった。
40年の時空をこえて、まさに今日的な課題だ。

70年代の統一戦線は、
何を展望し、何をなし、何をなしえなかったのか、
映画や小説などでは70年代論がはじまっているけど、
いま多面的な総括が必要だね。きっと。

2008年01月20日 若者たち 3部作

2008年01月20日
   
   若者たち 3部作   
      
1967年の映画「若者たち」のDVDが出たのは知っていたが、
なかなか見つけられなかったのだけれど、
ついにそろえてしまった全三巻(^_-)

「若者たち」67年、「若者はゆく」69年、「若者の旗」70年
監督=森川時久
田中邦衛(長兄)橋本功(中兄)山本圭(さぶちゃん)佐藤オリエ(オリエ)
松山政路(ぼん)の5人きょうだいの物語。

画面は暗いし、セリフは早口で、けっこう荒っぽいんだけど
全体にあふれるエネルギーは70年安保の時代が醸し出しているからだろうか。なんとも魅力のある映画だな

この頃って、世界中で学生運動が激しく、時代が大きく動いてる感じ。
68年は、キング牧師暗殺、ベトナム・ソンミ虐殺、
そして8月に「プラハの春」が戦車で潰されているんだね・・・
40年前って、ついこのあいだのことなんだな。

 君の行く道は 希望へと続く
  空にまた 陽がのぼるとき
   若者はまた 歩きはじめる

わたしの高校の卒業式の歌だった。

2008年01月07日 世界の中心はアメリカではない

2008年01月07日

 世界の中心はアメリカではない

           
1月6日朝日新聞「耕論」の加藤周一と上野千鶴子のやりとりがおもしろい。
そのさわり、
上野「市場化の波に、旧ソ連も東欧も中国ものみ込まれている。
 アメリカを牽制する力がなくなった」
加藤「バランスをとる力がなくなったというのはその通りだが、
 中国やインドが台頭し、アメリカの思うような存在には
 ならなくなってきているのも事実だ」
 「これは新しい局面ではないか」

上野「アメリカの有権者の選択が、世界の運命を左右する困った状況だ」
加藤「一極化する傾向が強く出てきたと同時に、矛盾するようだが、
 それと並行して、多極化する傾向もかなり強く出てきた。
 これはおもしろい状況だ」

この世界認識は、障害者の分野で考えると、
世界人権規約の発展として位置づく障害者権利条約。
この権利条約の国連での実現過程って、
まさに、世界の中心はアメリカではない!ということがよくわかる。

明けて7日発行の週刊「東洋経済」もおもしろい。
特集=「北欧」はここまでやる
 http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/
なんといってもデータがわかりやすい。
教育も福祉も、女性の社会参加と高度な民主主義化がポイントなのだと
じわーーとわかる。

欧州の中の北欧もそうだし、
中国もインドもアジア全体も、中南米も動いている。
そんなことをぼんやり考えていたら、
今朝の新聞で井上ひさしがこんなことを言っていた。

 何時に起きて
 朝、なにを食べて、
 夜はどう帰ってくるのか。

 よく映画を見てるか、
 劇場やコンサートホールに行く習慣があるか、
 本を読むか読まないか。

 つまりなにを大切だと思って毎日をすごしているか。
 こういったことを束ねたのが文化であり、文化の質だ。

激動の世界史の中で、
大切にすべき、健康で文化的な生活ってなんだ。
そのあたりに闘うべき価値があるような気がすると感じる
1月8日のはじまり。

2007年12月28日 「北辰斜めにさすところ」

2007年12月28日

 「北辰斜めにさすところ」

「北辰斜めにさすところ」は、旧制第七高等学校造士館
(鹿児島大学の前身)の寮歌。
まじめな映画を増産する神山征二郎監督作で、主人公は三國連太郎(84)というので、新宿でみてきました。

旧制高校ものの映画って、あの山田洋次監督の「ダウンタウンヒーローズ」でも、
わたしはとても感動したのですが、一般的な評価はあまり高くない(^^;)

わたしの場合は、旧制高校の雰囲気が少しだけ残っていた
寮生活を過ごしたので、個人的な思い入れが強いんだよね・・・

観客席はほとんどは70歳は越えている紳士たち。
映画が終わると、大きな拍手が起きたのも、
不思議と言えば不思議な世界でした。

物語は、七高から九州帝大医学部に進み、
南方戦線に軍医として従軍、
そこで大切な先輩を見殺しにしなければならなかった戦争
日本に帰れず外地で殺された青年たちは50万人・・・

戦後は川崎で開業医となるも、
一度も鹿児島に帰れなかった元野球部エースの三國。
その彼を鹿児島に呼ぼうとする友人たち、
織本順吉(80)、鈴木瑞穂(79)、佐々木すみ江(79)、
神山繁(78)、犬塚弘(78)、滝田裕介(77)、
坂上二郎(73)そして今年5月に80歳で亡くなった北村和夫。

わが郷土の誇り・三國さんって、
年をとったら「釣りばか」のスーさんなんてやさしい役してるけど
若い頃は怖い役やってたな。
「飢餓海峡」もだけど「戦争と人間」の殺し屋とか・・

だけど、彼は筋金入りの反戦思想で、兵役を拒否して逃亡して
捕まったり、すごい人生歩んでるんだよね。
画面に、彼の背中がうつるだけで、ぐっとくるものがありました。

でも、こうした役者さんたちも、戦争を体験した世代は、
本当に大切にしないと、
一人二人と、映画のシーンと同じように、消えていくだよね・・・

 「伝えたい志がある 残したい想いがある」
  この映画のコピー。
http://hokushin-naname.jp/

2007年12月17日 「世紀を刻んだ歌」

2007年12月17日
    

 「世紀を刻んだ歌」

16日の日曜日は家で過ごした。
何気なくつけたNHKハイビジョンは、 「五木寛之と過ごすハイビジョンの一日」で
「世紀を刻んだ歌」といういくつかのドキュメンタリーを再放送してた。
すごい迫力で、画面から身動きできなくなった。

◇「花はどこへ行った」
ピート・シーガーが作った反戦歌。

サラエボでは東独代表だったカタリーナ・ビットは、
リレハンメルでは、統一ドイツの代表として、この歌にのって氷上で舞った。
 Where have all the flowers gone ?
 Long time passing.

初めて外国語で歌ったのは、女優マレーネ・ディートリッヒ。
ナチスに反発し、ドイツを捨てアメリカへ移った。
五木寛之はコペンハーゲンで彼女の歌を聞いたという。
デンマークはナチスに占領されたことがある。
その町で歌うドイツ語の「花は~」
歌い終わったとき、場内は静まりかえった。
そして、子どもを抱いた一人の兵士の拍手から、
場内一杯に広がった拍手は鳴りやまなかったという。

◇「ヘイ ジュード」
ポール・マッカトニーがジョン・レノンの(わかれた妻との)息子ジュリアンの
ために書いた詞がチェコで民主化運動のシンボルになっていた。

「プラハの春」のチェコ。
マルタ・グビショバはキュートでセクシーなアイドル歌手。
1968年8月20日、ソ連は突然、プラハに60万人の軍と戦車を送り込み
「プラハの春」を制圧した。
最後まで市民に自由と対話を訴えつづけた放送局にいたマルタは、
軍による殺戮の現場にいた。
マルタがカバーした「ヘイ・ジュード」は、弾圧を受けながらも、
チェコの自由と民主化のシンボルとして密かに歌い継がれた。
1989年ベルリンの壁崩壊と東欧の自由化の波。
そこにはマルタの「ヘイ・ジュード」が歌われていた。

○「人生よありがとう」
ビオレータ・パラの歌は、チリやラテン・アメリカの軍事独裁政権の下で生き、
闘ってきた多くの人々を励まし、力を与えてきた。

1973年アジェンデ政権を倒したチリの軍事クーデター。
チリ最南端、マゼラン海峡に浮かぶドーソン島は強制収容所の島。
クーデター後、400人が収容され、強制労働、暴行、拷問された。
絶望に陥りそうな毎日の中で、自らを励ますためパラの歌は歌い継がれた。

---
ベトナムもサラエボも「プラハの春」も
サンチャゴの歴史もけっして知らないわけではない。

でも、自分が生きている時代の人間の歴史をあまりに知らなすぎる。
正直そう思った。

2007年12月12日 倍賞千恵子と谷川俊太郎

2007年12月12日

 倍賞千恵子と谷川俊太郎

カテゴリ:文化
先日、カミサンにひきずられて倍賞千恵子コンサートに行きました。
はっきり言って、倍賞さんの歌はすごい。
スポットがあたった瞬間から倍賞ワールドの民となります。

後ろの席のおじさんは(60代半ばかな・・)
「赤とんぼ」や「赤い靴」「ふるさと」などずっと小さな声で歌ってる。
注意する気もおきなかった。
このおじさんの人生ってどんなんだったろ、
それぞれがそれぞれに想い出にひたっている感じの
なんとも気持ちのいい空間でした。

ラジオ深夜便から生まれたという新曲の「冬の旅」は、
北陸を第二のふるさととしているわたしにはぐっとくる哀愁があり、
コンサート後ついつい、CD即売の群衆のなかにいました(^^;)
でも、そのCD「冬の旅」、すごい発見があったのです!

わたしは倍賞さんの歌で、いつも泣けてしまうのが
谷川俊太郎作詞、武満徹作曲「死んだ男の残したものは」です。
わたしにとっては先輩から教えてもらったベトナム反戦の歌。

谷川さんは、こんな一文を載せていました。

「歌い継がれることは喜びですが40年以上前に作られた
 『死んだ男の残したものは』がいまだに現実的であるこの世界に、
 作詞家としては哀しみとも怒りともつかぬ複雑な気持ちを抱きます。
 『世界の約束』の世界は、尽きることのない戦争の続く
 この地球を抱きとってくれるより大きく、
 より深い宇宙を暗示しているのですが、(略)

映画「ハウルの動く城」の主題歌「世界の約束」も
谷川さんの作詞だったんだ(作曲・木村弓)。
うーーむ、奥深いなあ

ちなみに、わたしのもっともこころ動かされる詞は

 死んだ歴史の 残したものは
 輝くきょうと 又来るあした
 
一人一人、すべての人々に輝く今日があり、明日が来ると希望できること
うーーむ、日本国憲法の真髄だなあ・・・深い。

2007年11月30日 西武新宿線の「臨時停車」

2007年11月30日

 西武新宿線の「臨時停車」

ここ数日、西武新宿線は「臨時停車」が続いている。
「急病人のため」というアナウスが多いように感じるが、他でもけっこう多いようだ。

一昨日、だったか、それはわたしの斜め後ろで起こった。
本を読んでいるわたしの背中越しにふわーっと動くものを感じたら、
足元に、若いサラリーマン風の男性が、崩れ落ちた・・・

なんで?? ・・・と呆然としていると、
隣の40前後の男性が、もう少し年上かな45歳前後?かな
その崩れ落ちた青年の首筋に手を当てて脈のあることをたしかめている。
青年は、意識はもうろうとしていてもあるものの顔には血の気がまったくない。

男性とわたしと目があって、
男性曰く「これは臨時停車ですかね・・・」
わたし「ですね・・・」

で、わたしが大きな声で
「非常ボタンはどこですか?非常ボタンの側の人は、非常ボタンを押してください!」
と3度ほど大きな声で言う。

しばらくたって、35歳前後の男性が「押しました!!」
車掌の声がスピーカーから「どうしましたか?」と聞こえるまでの
長かったこと(^^;)

「急病人です!」
「意識はありますか?」
「かすかにあるようです」
「つぎの駅で止まりますが、待てますか?」
(そんなあ・・・わかんねえよ・・・)

次の駅に臨時停車し、
駅員が「どこですか~!」と叫びながら、窓の外を行く。

「おーーい!!ここです!」とわたしが手を振り、
一番近いドアに駅員が3名ほど駆けつけるも、
ドアは外からはあかない(^^;)

「座席の下のDボタンを押してください!」
といわれても・・・そのDボタンはなかなかみつからない(^^;)

今度は別のサラリーマンが、
ぼーーとしているにいちゃんのバックをあらっぽくどけて
Dボタンをおしてくれた。
倒れた青年はその場で駅員にあずけた・・・

しかし、集団のなかの孤独というか、
こういう場合の当事者をおもうと怖くなる。

それと、こういうときに、
とっさに判断して動ける人って、
そんなに多くはないなと感じた。

倒れた青年を抱きかかえていた男性とは、
その後の車中、
「だいじょうぶですかね・・」と二人ぼそっといったきり、
高田馬場で人波に消えた。

しかし、最近、電車での「急病人」やけに多いな。

2007年11月02日 日比谷野音がもえた!

2007年11月02日

 日比谷野音がもえた!

カテゴリ:世情
今年のベストショットかな。

10.30全国大フォーラムの政党シンポジウムの一枚。

政党の背中に少し光をあてて、クローズUPさせつつ、
6500名の参加者の、燃えるような思いを画像にあらわしたかった。

カミサンは「桜が咲いてるみたい」といったが
なるほど、人の魂は花にみえるのかもしれない。





2007年10月20日 友だちに薦めたくてたまらない本

2007年10月20日

 友だちに薦めたくてたまらない本

カテゴリ:
友だちに薦めたくてたまらない本だ!

「僕はやっぱり歩いてゆくのだろう
 新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ
 春をむかえ 更に新しい夏を期待して
 すべての新しいことを知るために
 そして
 すべての僕の質問に答えられるために」

8月に出て増刷を重ねる『谷川俊太郎質問箱』(ほぼ日刊イトイ新聞)

詩人から届いた答えは、
なんて深く、こころにしみるんだろう。


質問4
 どうして、にんげんは死ぬの?
 さえちゃんは、死ぬのはいやだよ。(さえ 6歳)

谷川さんの答え
 ぼくがさえちゃんのお母さんだったら、
 「お母さんだって死ぬのいやだよ!」
 と言いながら
 さえちゃんをぎゅーと抱きしめて
 一緒に泣きます。
 そのあとでいっしょにお茶します。
 あのね、お母さん、
 言葉で問われた質問に、
 いつも言葉で答える必要はないの。
 こういう深い問いかけにはアタマだけじゃなく、
 ココロもカラダも使って答えなくちゃね。


質問20
 どうすれば、この大学生活4年分の
 「ありがとう」の気持ちを
 上手に伝えることができるでしょうか
 
谷川さんの答え
 大学生活四年分と言うとなんだか量みたいだけど
 実際には質でしょ、
 ぼくだったらどんなことがあっても、
 一生その人を裏切るような行動をしない、
 そんな伝えかたをするかもしれない。

2007年08月12日 中学校の同窓会(ふるさとにて)

2007年08月12日

 中学校の同窓会(ふるさとにて)

9年ぶりに開かれた中学校の同窓会に参加。
4クラス160名近い卒業生で参加したのは70名近く。

参加してくれた担任は、
当時は41歳だったという数学のU先生と
はじめての赴任校で20代中盤だったというわが英語の担任のH先生
彼女は、その後、知的障害の養護学校でフィニッシュしている。

いろいろあるけど、弾んだのは、給食の話。
「ミルク」と教えられた「脱脂粉乳」(;_;)
「おいしいパン」であったコッペパン(^^;)
「肉と野菜のソテイ」の肉とは鯨肉だった・・・
とか、
吉野家の牛丼をはじめて食べたとき、なんとうまいものか!とおもったり、
お好み焼き以外、ピザなんて喰ったことがなかったから、
社会人になってからは毎食ピザばかり喰った(^^;)
などなど。

番外編は
冬は石炭ストーブの余熱でアルマイトの弁当箱に入ったご飯を温める係があって、
その場所取りでたいへんだったことなどなど。
たわいのないことながら、妙に熱がはいったな(^_-)

でも、記憶というものは、不思議なもので、
イヤと感じたものはみごとに空白になっていた。
私にとっては中3の夏の記憶だ。

サッカー部のエースは、県大会予選の決勝戦で、
じつにつまらないPKで負けてしまったことを昨日のように熱っぽく語るが、
もう一人のエース(わたしのこと(^^;))は、そのとき、
「脊椎分離症」による腰の痛みで、満足なプレーができなかった。
思い出したくもない記憶であるのか、ほんとうに、その夏の記憶は、
分厚いコルセットを巻いて、あせもに悩まされたことぐらいなのだ・・

ところで、この同窓会でふるさとへ帰る片道2時間の道すがら聞いたCD=
倍賞千恵子が熱唱する「死んだ男の残したものは」は、涙がでたな。
最近、涙腺がかなりあまくなっているのだが、
詩も音楽も歌もいいなあ。

とりわけ、6番
 死んだ歴史の残したものは
 輝く今日とまた来るあした
 他には何も残っていない

 谷川俊太郎作詞 武満徹作曲
  http://yubitoma.jp/Fuchu21st/REAL/sindaotokono.html

すべての人びとに 輝く今日と  また来る明日 を感じられますように

2007年08月06日 悠久の時の流れに

2007年08月06日
 

 悠久の時の流れに

カテゴリ:学び
大きな仕事が終わった。
研究運動団体がわたしの仕事場だが、
その結成40周年の全国大会を無事終えることができた。

なかでも、「結成40周年のつどい」は、
愉快に、感動的に、決意をかためあう場となった。

会を創った人もいる。
そこに青春をかけた人もいる。
いま、そこで学びをはじめた若者もいる。

乾杯の挨拶で、創設者の一人・清水寛
(初代事務局長・二代委員長)が
初代委員長・故田中昌人の「社会(体制)の系」の
発展を強調し、
「日本と全世界の人びとの願いにこたえて、
 発達の権利と生きる権利、
 それを統一して民主主義を実現していく、
 平和のうちにいきる民主主義をつくりだすための
 研究運動団体として真価が問われる」
といった言葉が耳に残っている。

7月22日に参加した「秋元波留夫先生を偲ぶ会」で
いただいた本につぎの言葉があった。
101歳生きた秋元さんの言葉が、
「結成40周年のつどい」で感じたここと共鳴する。

 ときは流れ、
 人は変わり、
 やがてはいかなる時代も
 過去の歴史の一節にくりいれられる時がくる。

 ただ、私は信ずるのだが、
 もしある時代をつくった者たちが
 利害や形式だけの関係ではなく、
 心のふれ合いで結びついたのであれば、
 その時代は有形の業績を残すだけに終わることなく、
 無形の精神的遺産として伝統の形式に役立ちうるだろうと。

   (秋元波留夫『新未来のための回想』より)

2007年05月22日 映画「パッチギ LOVE&PEACE」

2007年05月22日
 

 映画「パッチギ LOVE&PEACE」

カテゴリ:映画・TV
どうしてもみたい映画がある。
どうしてもみなければならない映画もある。

この映画は最後の15分にすべてが凝縮している。
生きろ!だ。

前作で主人公のアンソン(井坂俊哉・「純情きらり」のキヨシ?君)
に生まれた家族のシンボルの息子・チャンスは小学生。
妻(遺影は前作の女優さん)は白血病ですでに亡く、
筋ジスと診断されている。
当時の医療では「20歳まで生きるのは難しいかもしれません」
と宣告される。

その兄を慕う妹・キョンジャ(中村ゆり)
チャンスの治療費と自分の可能性のため芸能界に入る
(そのあたりの展開はノムケン(西島秀俊・「純情きらり」の冬吾さん)
 との恋とか想定内の展開で)

そこそこに展開していたのは、最後の15分の集中のためという感じだ。

1974年の東京と
アンソン・キョンジャの父のいた1944年のヤップ島が交差しながら
ド迫力の戦争シーンが展開される。

キョンジャが告白する父の生き様、
済州島に生まれ、本が好きで、大学に進学して、
将来は先生になりたいとおもっていた父。
「御国のため」でなく、殺されたくないから、殺したくないから脱走した。
「父が戦争から逃げて生きてくれたからこそ、
 ・・・だから私はこの世に、今こうして生まれることができました」

ぎりぎりで映画館に滑り込んだので、
隣の大スクリーンでやっている石原都知事総指揮の
「俺は、君のためにこそ死ににいく」にどれだけの人が
入っているのかは知らない。

しかし、同じ時期に、この映画がつくられ、
そこにいる10名くらいのみんなが泣き、
共感していることに拍手したい。

パッチギ LOVE&PEACE!

2007年05月06日 二つの星

2007年05月06日
   

 二つの星

   
この連休中に二つの訃報があった。

きょうされん顧問で精神科医の秋元波留夫さん。
4月25日、肺炎のため亡くなられたことを知らされた。101歳。

秋元さんは、一度あった人をわすれない。
たまにお会いすることのあったわたしもよく覚えてくださっていて、
全障研のことを気づかってくださった。

昨年の9月9日、よびかけ人であった「障害者・患者9条の会」の
結成1周年集会で、20分もの気魄あふれる「あいさつ」をしてくれた。

「憲法九条は、障害者・患者にとってかけがえのない、
命と権利を守るよりどころであります。
私たちは、憲法九条を守り抜くために、
日米安保条約を廃棄しなければなりません。
障害者・患者9条の会のアピールには、
「戦争は、いのち、文化、経済を破壊します。
その度に、障害者は、社会的に役立たない
”穀潰し””非国民”とさげすまれ、差別され、
抑圧されてきました。
障害発生の最大の原因は戦争による暴力です。
戦争と障害者のしあわせは絶対に両立しません。
障害者は平和でなければ生きられないのです」
と記されております。
この立場から私は、障害者・患者9条の会が、
わが国を戦争に巻き込むその張本人である
日米安全保障条約廃棄と憲法九条を守る運動を
統一的に結合した全国運動に取り組むことを
提案して、
私の呼びかけ人のあいさつといたします。
(全文 http://www.nginet.or.jp/9jo/2006akimoto.html 
 

もう一人、羽賀和樹さん。
5月4日の深夜に亡くなった。

脳性マヒで東京肢体障害者団体協議会の事務局長だった。
とりわけパソコン通信時代からは深い友情で、
障害者とITの可能性を実践されたパイオニアだった。
とても本が好きで、パソコンやインターネットも独学だった。
マルクスもレーニンもクルプスカヤもよく読んでいた。

年上なのに、恥ずかしがり屋で、
ふるさと岡山から送ってきた巨峰のお裾分けはおいしかった。

高校3年になった娘がまだよちよち歩きだったころ、
あれは売上税反対だったか代々木公園いっぱいの集会のとき、
電動車椅子に娘を乗せてくれて、
いっしょにデモした一枚の写真がとても印象に残っている。
みんな若く、笑っていて、ちょっとかっこよかったな。

羽賀さんは病気と脳性マヒの二次障害とまさに闘いながら、
最後まで仲間たちのことを気遣ってくれていた。

奥さんの典子さん。
典子さんは羽賀さん以上にきゃしゃでからだが不自由なのに、
二人でりっぱな息子を育て、
和樹さんといっしょにいまいましい病と、
きわめて貧困な日本の医療と闘ったよね。

障害者のある人も、だれもが安心して受けられる医療の保障、
切実な問題提起だよね。

いのちのバトン、しっかりと受け継ぎます。

2007年04月27日 パソコン通信を知っていますか

2007年04月27日

 パソコン通信を知っていますか

       
今日は、じつに久しぶりの、ブログです。
書きたかったのは、写真(PC9801RXとモデム、HDD100メガ)のこと。

1990年4月に開設した、パソコン通信「みんなのねがいネット」は、
参加者は最大時1500名に達しました。

「情報アクセス、コミュニケーションは人権」と
実践的にアピールしながら、楽しく、価値あるネットをめざしました。
94年に『障害者のパソコン・ワープロ通信入門』(全障研出版部)を刊行。
日本障害者協議会(JD)の推進する「パソコンボランティア」(1997年~)
にも中心的な役割をはたしました。
なによりも、新鮮な出会いがとても楽しかった(^_-)

世はインターネットの時代となり、利用者は少数となりましたが、
とりわけ数名の視覚障害者から、メールの使い勝手がよいので、
なんとか維持して欲しいとの要望を受け、
ハードが壊れるまでは維持しようと、こころに決めて継続してきました。

そして、とうとう、そのときがきて(ハードよくもったなあ)、
2007年3月31日、17年間の役割を終えて電源を停止しました。
先日、電話回線も3回線、解約しました。
一つの時代に区切りをつけたような、なんとも微妙な感慨にふけりましたね。

そんなとき、Peopleというパソコン通信・「福祉工作クラブ」の運営者仲間の一人が、
海外留学するので、その壮行会を兼ねて、
久しぶりに温泉で合宿しようとの嬉しいメールが届きました。

おもえば、この「福祉工作クラブ」の1コーナー=「ぱそボラ」ネットワークが
「パソボラ(パソコンボランティ)」のさきがけでしたね、、、(しみじみ)
15年ほど前の話だけど、昨日のことのように感じるな。

当時自分が若かったということとを差し引いても
インターネットよりもパソコン通信の出会いや交流のほうが濃密だったかなあ。

再会は七夕の日。
昔話に花が咲くのも、いいもんだ。

2007年04月08日 親父が倒れた日

2007年04月08日
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 親父が倒れた日

カテゴリ:世情
年度末から年度初めにかけて、じつにいろんなことがある。
現在進行形のことが多いのでほとんど書けない。

カミサンと結婚して20年がたったこと、
娘が高校生活最後の定期演奏会を成功させ青春してることなど
嬉しいこともあるけど、
もっとも直近の出来事は、ちょっと重いな。

金曜日に親父が倒れた。
今日、往復5時間かけて見舞ったが、
結果は軽症の脳梗塞のようで、入院3日目、
言語にややマヒがあり、右手と右足にマヒがある。
今後のリハビリ勝負というところだが、わがふるさとの医療環境は深刻だ。

救急病院は人口20数万のエリアに1か所しかなく、いつも満杯状態だ。
産婦人科や小児科の撤退はもとより、
内科の医師さえ地元医大からの派遣もあやしい。
他の病院は寝たきり状態の高齢者たちで満杯だという。

この環境で、お袋が看病疲れで倒れようなら、いったいどうなってしまうのか。
なんとも、寒すぎる、医療と介護の現場だ。

漠然と思っていたことが、いざ現実に直面すると、
やはりとんでもない環境であったことを思い知らされた。

数か月前に訪問したデンマークでは、県は医療すべてに責任をもつように
行政機構を大転換していた。
医療も、福祉も、教育もどこまでも無料だった。
当人も安心ならば、家族も安心できる。
どうして、この日本では、政治がとるべきあたりまえのことができないのか。

今日は、統一地方選前半の投票日。
ふるさとは県議選は、立候補しているのはすべて保守。
医療や福祉と同様に選択肢さえない。

散歩の盟友をおもい、忠犬ジャンヌもうかぬ顔をしてた(写真)
(わが家は女系で、犬も女系。歴代、ジャンヌダルクのジャンヌを名のっている)

2007年01月02日 2007年1月1日に思ったこと

2007年01月02日
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 2007年1月1日に思ったこと

カテゴリ:世情
大晦日。北陸から乗り換えた上越新幹線は満員。
斜め前の青年は、大宮駅までの50分間、ずーーと任天堂のDSゲームに没頭している。
その前席の少年は「じゃがりこ」と「ポカリ」を交合に飲んでは食っていた。
中央線快速は人身事故で止まっているという。

自殺者が年3万人を越えたのは、2000年からだが、
この国は、滅びの域に入ってしまったような怖さを感じる。

明けて1日。
「国旗・国歌 企業も尊重を 御手洗ビジョン 提言発表」
の見出しに目がとまった。

経団連会長の御手洗会長は(オテアライでなくキヤノンのミタライさんね)
今後10年の将来構想「希望の国、日本」(御手洗ビジョン)を発表。
産業競争力の強化策
(ようは大企業の税金をもっと減らせ、賃上げせず、残業代も払うな!ってこと(^^;))
を求めるほか、
教育現場だけでなく企業や官公庁、スポーツイベントなど社会のさまざまな場面で
日常的に日の丸を掲げ、君が代を斉唱せよ!
(新しい教育基本法の理念に基づき、愛国心を育むのだ!)
そして、憲法9条第2項見直し
を提言したという。
大企業のトップが露骨な進軍ラッパ、、、

同じ新聞の一面の大広告にも、心臓がバクバクした。
「苛酷な時代を生きた、美しい日本人の姿を残しておきたい」
 制作総指揮 石原慎太郎
 5月12日全国ロードショー「俺は、君のためにこそ 死ににいく
特攻の母・島濱トメ役は岸惠子、
若手配役も徳重聡、窪塚洋介、筒井道隆、多部美華子と豪華だ(^^;)

信じられないことに1947教育基本法は強引に改悪されてしまった。
腹心の閣僚の辞任でぼろぼろのハズの首相は憲法「改正」に本気でアクセルを踏み込む。
アメリカだって中間選挙で「冷静さ」を示したのに、
この国にはブレーキというものはないのか、、、

ちょっと救いは、高倉健さんのインタビュー記事。
映画の魅力を教えてくれた「哀愁」で、
(ビビアン・リーのバレリーナとロバート・テイラーの青年将校の悲恋(;_;))
健さん曰く
「何度目かの観賞でこの作品は反戦の精神に支えられていることに気がついた。
 パンチを食らった気がした。男の在り方や平和の尊さをたくさん教わった」
そうだ!そうだ! えらいぞ健さん(^_-) ここに普通の人の感覚がある。

希望は、昨年の障害者自立支援法反対の闘いのなかにもある。

そういう年、
3日から駆け足で、5度目の北欧=デンマークとフィンランドを旅して来ます。
両国でそれぞれの養護学校訪問や変わりゆく作業所、
余暇というか青年たちのイブニング活動の実態をしっかりとみて、
考えてきますね。

ということで、ひとまず、今年もよろしくお願いします

写真は、北アルプス剣岳の夜明け前。
けわしく、美しく

2006年12月19日 しあわせになろうよ

2006年12月19日
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 しあわせになろうよ

カテゴリ:世情
ここでも紹介した、新潟の重度の障害のある友人の結婚を祝う会のようすを
月刊「みんなのねがい」1月号が3ページのカラーグラビアとして掲載している。

印刷所の大失態で、色はむちゃくちゃになってしまったが、
それでも雰囲気は伝わってきます。

こんな文を書きました。

「全障研で学び、ひまわり号で出会った二人。
 2006年11月11日、夜。
 正男さんの利用するデイサービスセンターを会場に手づくりの祝う会があった。
 
 困難を数えはじめれば山ほどある。
 でも、二人は互いを必要とし、
 いっしょに人生を歩みたいと願った。
 
 理香さんは介護資格を得て、
 近くの病院で働きはじめている。
 地域の人と人のつながりの中で、
 新しいくらしに踏み出した。」

正男さんのホームページ
 http://homepage3.nifty.com/mylife-masao/
 
PS
来年のことを言うと鬼がなんとかですが(^^;)
1月中頃から「メールマガジン・金ベエ便り」を不定期に発行していきたいと思います。
ちょっと旅して感じたこと学んだことを、つらつらと書いてみます。
ご希望の方は、ご連絡ください(^_-)