2010-03-27

京都は春

仕事帰りに京都を散策した。
偶然の着物ショーには中国のみなさんが強烈な視線。
雨模様の嵯峨野は緑が美しかった。

2010-03-14

『ユニバーサルデザインのちから 社会人のためのUD入門』のちから

20XP年12月10日、ノーベル文学賞をストックホルムのコンサートホールで授賞されたさえら女史は、umeさん運転するリムジンで、
メーラレン湖畔にあるストックホルム市庁舎・青の広間での祝賀晩餐会に到着した。

ちなみに、受賞したのは「兼六園内にある日本武尊の銅像にハトが寄り付かないことをヒントに、カラス除けの合金を開発した」某教授のような「イグ・ノーベル賞」ではないもよう。

スウェーデン・アカデミーは、その選考過程において
『ユニバーサルデザインのちから 社会人のためのUD入門』
『スローなユビキタスライフ』
『「誰でも社会」へ』
『パソコンボランティア』など
変幻自在の文章とひとを巧みな話術で操りながら、なんだかんだと少なくないこころある人たちを
ユニバーサルデザインの思想と実践の世界にひきづりこんだそのエネルギッシュな行動力と作品が高く評価されたことを表明している。
一部に「平和賞」の声もあったが、最近その賞の評価が下がりつつあるので、ここは「文学賞」をとのことであったようだ。

晩餐会会場では、カール16世グスタフ王の隣に、ハイカラさんが通るルックでひときわ目立つさえら女史は、ネット中継を見ているグスタフ王のパソコン操作をしきりに気にしている。

さて、2010年の「出版記念会」に、体調を崩し、参加できなかったことを悔やんでいた金ベエ老人は、20年ものの友人として、つぎのような受賞のお祝いのスピーチをした。以下、採録(^^;)

さえらさん!
本当におめでとう。
わしは、ほんとにうれしい。

とりわけ『ユニバーサルデザインのちから 社会人のためのUD入門』
あれは・・・つい降りる駅を乗り過ごすところだった、それくらい、じんわり、おもしろい。
前半は映画化しよう!

新人社員柚衣には九州女の蒼井優、笠井くんの人選はさておき、
脇は「釣りバカ」の脇役たちでかためる。
難問は片岡さん役だが・・・まあ、多少減量すればわしでもいいか(^^;)
監督は、最近、京都の学生たちが山田洋次監督の指導で
初々しい恋の映画「京都太秦物語」をつくったが、あの若者たちがいいなあ。

前半の映画化は決定したとして、問題は後半だ。

筆者はUDの旗手なんだけど、わしはバリア・フリーに運動論的軸足があるんよ。
80年代から90年代の、国際障害者年以降の障害者運動の大きな実践思想はバリア・フリーじゃ。
でも、国際的にバブルは弾け、北欧は、教育とITにアクセルを踏んで活路を見いだしたけど、
この国は・・・その背中も見えないほど離れる中での先のグローバル恐慌勃発だ。

すべての価値が「安い」ことに流れる中で、当事者にかぎりなくこころを寄せれば、
バリア・フリーもUDも、どちらか一つでなく、
どちらもともに権利として主張していいのではないだろうか。

当事者戦線からは、必要なものは必要なんだ、あれかこれかではなく、あれもこれも求めていい。
そんなことを最近富に感じている。
ゆがんだこの国のものの価値観を、根底から変えないと、
わしらほんとに安心して年とれないぞね。

だから、ありがとね。
UDの星は、いままでも、これからも、ずっと輝いててな。

(以上はフィクションです)

2010-03-08

山澤清さんの軌跡(追悼集)

山澤清さんは2009年10月6日に郷里の松山で亡くなられた。享年72歳。

道後温泉の酒屋さんで次男として生まれ、
生後五か月頃、日本脳炎に罹患し、四肢不随意運動性脳性マヒとなった。
法政大学哲学科で乾孝、谷川徹三に学び
早稲田大学で心理学修士を、東京教育大学で肢体不自由教育の博士課程を学び、
78年からは家業を手伝いながら愛媛大学で研究生、聴講生として
研究活動を継続した。

愛媛大学の渡辺弘純さんがまとめた「追悼集」には
31名のなかまが「思い出の記」を寄せている。

わたしもつぎの一文を寄せたが、
山澤さんの障害の原因が日本脳炎に罹患したことからだったことを
はじめて知った。
小さい頃、わたしの3つ下の妹は、その病で亡くなっている。

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5月が終わる頃になると、山澤さんからメールが届いた。

「四国・道後に住んでいる,山澤清です.ご無沙汰しております.

 東京医科歯科大学歯学部付属病院障害者歯科外来で私は,
 また歯の診療をしていただくなどのために,上京いたします.

 歯の診療を受けた後でないと,今度の私の上京中の予定が分かりません.
 今度の私の上京中も,あなたはお忙しいし,私もあわただしいので,
 お会いする機会がないかもしれません.上京しましたら,
 全障研事務局にお電話をさし上げます.その時に,
 お声だけでもお聞かせください.

 では,上京しましたときに.
         山澤 清 Kiyoshi YAMAZAWA」

そして、山澤さんは、ニコッと満面の笑顔で全障研の事務所を訪ねてくれた。
もちろん、お土産はかかさない。
だいぶ前は「坊ちゃん団子」だったが、いつの年からか、
わたしが美味しい!と言ったからか、「しょうゆ餅」が定番になった。

いつもにこやかだった山澤さんが、厳しく意見をくれたのは、
障害のある人とICT(情報通信技術)関連の
わたしの論文や著作を読んでくれたときのことだ。
研究論文に対する姿勢は、どこまで「追求の徒」だった。

2009年の晩秋、
わたしは山澤さんがすでにいないことも知らずに、松山にいた。
全障研や障全協、きょうされんの四国各県のメンバーなど
80名の集った交流集会があり、突然のピンチヒッターで
「障害者自立支援法と障害者権利条約 北欧と日本 やさしい社会の条件」
を講演していた。

集会後、はじめての道後温泉。
風呂上がりの一杯のお茶と一串の「坊ちゃん団子」。
そして「坊ちゃんの間」から見える柳がゆれて、
時間がゆったりと流れていた。

山澤さん。
しょうゆ餅食べながら、ゆったりともっと語り合いたかった。

”だんだん”