2013-08-04

コペンハーゲンの学校で考えたこと

1848年、ヨーロッパは革命のなかにあった。

フランス二月革命、ドイツ等三月革命で絶対王政は倒れた。
マルクスはエンゲルスに支えられ『共産党宣言』を発表する。
イタリア統一の動き。ハンガリー、チェコ、ポーランドが揺れる。


デンマークでは、市民1万5千人のデモを契機に王政が放棄された。当時の人口で10人に1人が参加した大きなデモだ。翌1849年6月5日にデンマーク憲法が成立した。

以後、デンマークは、敗戦による領土縮小などを経ながら、グルントヴィ(1783~1872)らのフォルケ・フォイスコーレ(国民高等学校)運動により、農民の教育と強い社会連帯によって、民主主義と福祉国家への道をあゆみはじめる。

訪問した基礎学校=エングスコーレンの玄関には、「1895」とあった。
革命から50年、コペンハーゲンの人口は15万人から50万人に激増している。大半は貧しい工場労働者だった。ここは、いまから120年前、スラム街の貧しい家庭の子どもたちに教育を!と開校した学校なんだ。

学校に行けば、食堂があり、勉強も教えてくれる! 
そして時が過ぎ、軽度の障害のある子どもたちが増えて、だんだんといまの学校に変わってきたとすてきな校長が言う。

おもえば、糸賀一雄らが創設した近江学園も、戦災孤児といわれた子どもたちを貧困から救い、「腹をくちく」することがねがいの一つだった。
そのなかには、当たり前のこととして知的障害のある子らもいた。
糸賀の「この子らを世の光に」の「この子ら」には、そうした知的障害のある子らもいれば、重症心身障害児といわれる極めて重い障害のある子らもいた。
大先輩たちは、どんな障害があっても生きることの価値は絶対的なもので、障害のある子らだけでなく、「他者実現とともにある自己実現」にとりくむすべてのものたちの営みも「光」ととらえた。

デンマークのコペンハーゲン中央駅裏の貧民街につくられたこの学校も、敗戦後の滋賀につくられた近江学園も、その根底にある思想は、地下茎でつながっているようだ。

すべての子どもには教育を受ける権利があり、それを社会は実現する責任がある。


こんなことを考え、旅の報告集『白夜の時間 北欧2013夏』の編集後記とした。