2013-02-09

空っ風の町で 


渡良瀬川と利根川が合流する小さな町。
友人の通夜に今夜参列しました。
彼が写っている写真を古いアルバムで見つけて奥さんに渡しました。
会場には、高石ともやと一緒の笑顔の彼の写真と歌が静かに流れていました。

    ◆◇◆

一昨日の月曜日、イヤな夢で、朝早く起きると外は雪。
いつもより早出でバス停にむかうと、友人からケータイに着信記録がありました。
イヤな気がして、折り返し電話すると、高校時代から兄弟のようにつきあっていた友人が今朝亡くなった。
ここ3年ほど、悪質な肺の病気の進行で、呼吸がどんどん苦しくなっていたのです。
朝4時34分、永眠。


   ***

中学の頃はライバル校のサッカー部(HB)で、選抜チームの陸上では400メートル選手。
まったくわたしと同じポジションで、郡単位の競技会では、いつもあと少しのところで彼に負けていた。

男だけの地元の高校に入学すると、新聞部でいっしょになった。
授業よりも、家に居るよりも、休日問わず、ほとんど部室で一緒だった。
わたしは活字重視の硬派の編集長。彼は地域の高校(おもに女子校)をつなぐ組織者。
けっこう対立したのだけど(高校生なりに熱く)、ひよっとするとお互い違うものを一番認め合っていたかもしれない。

卒業後、わたしは浪人。彼は働きながら夜学に通った。子どもたちに希望を語る教師になりたい。
彼の下宿のあった東京・小岩には、新聞部の仲間がよく集まった。
ガンガン飲んで、激論(たいしたテーマでもなく)してたある日、風邪を引いていた彼が高熱を出し始めて、みんなで、おんぶしたりしてわっせわっせと病院に運び込んだ。椎名誠の私小説の世界を実体験してた。
彼につれられて、有楽町の読売ホールで聞いた高石ともやコンサートはよかったな。

好きだった彼女にふられたといえば泣き、結局、一つ年下の女子校の彼女と結婚が決まれば、やっぱり泣いた。
そして、彼は、努力の末に、地元の小学校の教師となった。
希望を語る伝説の名物教師となった。

   ***

それから30年はあっという間だ。
1週間ほど前、新聞切抜の整理をしてたら、高石ともやの連載のインタビュー記事が目に入ったので、隣町にある渡良瀬遊水池のグラビア写真といっしょに送った。
彼はその手紙と記事を読んでいたそうだ。

      ◆◇◆

添付の写真は1980年、夏の奥能登。
友人たちは、東京から名古屋経由でクーラーもないオンボロ車で金沢にやって来た。狭い車に男5人で北陸を愉快に旅した。

写真左が今日の通夜の彼。
真ん中の友人は血液の病で20代後半に亡くなった。一人で農家を切りもりするお袋さんを助けるんだと獣医をめざしていました。彼の命日は1月3日。
この日はなにがあっても8人となった新聞部の仲間は墓前に集まりました。今年は30年目。

ちょっとばかり先にいった二人は、天下国家を熱く語りながら、若い子にナンパして、あいかわらずふられてるとおもうことにします。

通夜の会場に静かに流れていた高石ともや歌う「私の子どもたちへ」

 生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を
 あなたに残しておいて やれるだろうか 父さんは

3.11後の、それも暴走政治のこの国で、生きている私たちは重いバトンをリレーする。

高石ともやのCDをガンガンにして、歌いながら帰る道すがら、空っ風はやんで満天の星。
                                 (2013.1.31)





2013年1月1日雑感

たまにお客さんが、もちろん超高齢者だが、タクシーで義母の美容室にやってくるという。
地元のタクシーだから店主はすでに亡くなっていることを知っている。
「やっとらんちゃ」と言われても、義母のいない、群馬のお袋が送った淡いピンクの蘭の花が飾ってある店の前で、しばらくたたずんでいくのだそうだ。
雪国の年老いた人たちは、しずかで、やさしい。

    ***

大晦日は、騒がしいだけのテレビから離れて、ほろ酔いで倉本聰『倉本聰の姿勢』を読みながら除夜の鐘も聞くことなく眠ってしまった。

明けて今朝の新聞各紙。順不同で、讀賣、朝日、毎日、日経、北陸中日+東京新聞、赤旗を
目で追って、破ったものを読み返してみる。

○「TPP早期に参加を 米倉経団連会長」(讀賣)
○「競争できる環境整備を 米倉経団連会長」(日経)
日経では、電力安定が重要と「安全性が確認された原発の再稼働を進めるべきだ」。
自民党政権への期待は「自民、公明両党で衆院の3分の2を超えたが、政党同士の信頼関係を大事にかじ取りを担ってほしい」
この勢力と多くの市民との願いとが歴史的に対決するのが夏の参議院選なのだろう。

もう一つは、
○「新春対談ー明日をひらく-」玄田有史×倉本聰(北陸中日、東京)
12月の深夜のBSで、倉本聰が山田洋次監督と30分×5回の対談をしていた。
山田監督があんなに笑う対談も珍しい。すごくおもしろかった。
で、この新聞対談。
倉本「広島、長崎、沖縄、福島っていうのは日本人が忘れちゃいけない問題だし、ましてや沖縄・福島は現在進行形。自分がどこまで親身に打ち込めるか考えたい」
この人の感性に共感する。

    ***

2013年は2012年の連続だ。新しいことが今日からはじまるわけではない。
12年は、1月5日から北欧を訪問し、とりわけデンマークのグルントヴィを手がかりに、学校にとどまらない学びの場と体制を視察し、そこに希望を感じた。

2月には裏切りの「総合支援法案」が出され、表や裏のロビー活動。
国会に上程された4月からは6月まで、雨の日も風の日も、じんじんと肌が焼ける日も国会前につどって、それぞれの言葉で、「総合福祉法実現」「自立支援法廃止」をアピールした。
官邸前の金曜日行動が大運動になるそのさきがけだったのかもしれない。
一人一人が自分の思いを自分の言葉で訴える。
みんなでシュプレヒコールする。
そしてそれを全国の仲間とインターネット中継でつなげる。
おかげで不規則な生活がたたり、体重はマイナスからプラス曲線に(^^;) 悪いのはすべて裏切った政治家だ!

夏は広島での全障研大会。2700名がつどったとともに、ヒロシマでフクシマを考え、連帯の決意を固め合ったことが嬉しかった。
その喜びと一緒に、自分のこの組織での勤続30年を感じた。すぎてみればあっという間の30年。

後半は、外は障害者政策委員会、内は組織の経営・人事。私事では義母の死。そして12月の総選挙・都知事選。
でも、本物の芸術からはエネルギーもらった。
 9月の東京都美術館の工房集展
 11月の山口華楊展
 12月の深井せつ子個展
しかし、激動の情勢ってますます加速するみたいだ(^^;)

    ***

この間、親父や義母、恩師や友人の死に直面して、生きること、死ぬことということを考えはじめた。人生はそんなに長いものじゃない。

そんななか、わが娘はこの春大学を卒業する。
卒論テーマは、「障害者の余暇の権利に関する一考察 ―障害者権利条約、デンマーク、日本の動向―」指導教官の丁寧な指導のたまものだが、自分の卒論を思えば、よく書けたものだ。

しかし、「何のために大学へ行くのか?」という問いに、いまならこう答えられる。
「恩師と呼べる人を得るためだ」「希望を語りあう仲間を得るためだ」
娘よ、胸を張って、社会に飛んでゆけ!

        ***

最後に、今年の「1月5日近況ハガキ」の
元になった詩を紹介します。
みなさん、今年もよろしくおつきあいください。

 「かすかな光へ」  谷川俊太郎

  たとえ理由は何ひつつなくても
  何の役にも立たなくても知りたがり
  どこまでも闇を手探りし問いつづけ
  かすかな光へと歩む道の疲れを喜びに変える。

おくりびと


 この秋、富山に住む義母(79歳)を看取った。四十九日法要を終えると、年末には群馬の親父の三回忌がやってくる。親の死に直面し、はじめて本気で死に向き合っている自分は、めっきり白髪が増えて56歳になった。

 『納棺夫日記』の立山山麓の町。3年前に余命1年と言われた義母は、本人の生きる強い意志と適切な医療によって、最後の入院の前日まで、しゃんとして店で働いていたそうだ。生涯使い続けた美容師の鋏はだいぶ小さくなっていた。

 人口3万の町には、誇りとしている市民病院がある。そこは県内4つの基幹病院と連携し、県立病院には、終末期医療体制があった。もちろん充分ではないけれど、この医療体制があって義母は在宅で働き続けることができた。

 脳梗塞で倒れた親父の場合を思った。人口1万の町で特養の定員は50名、待機者は50名を越えていた。2度目に倒れたときは救急病院へ、転院を迫られる 「3カ月」の前には必死に探して、たまたま空いた療養型病院に移った。この国の、人間を大切にしない医療と福祉の貧困とむごさを実感したものだ。

 舞台裏には、やれ戒名だ、祭壇だ、墓石だ等々お金の世界もある。けっこう深刻なのが、お墓の維持。明治以降の家族制度がベースだから、急速な核家族化に は大きな矛盾が広がっている。北欧には、教会税があり、教会という公的資源が墓を守る。ではこの国で、東京で暮らす長男・長女が、それぞれの故郷の墓をど う守っていくのか。ハムレットの心境なのだ。

 それぞれの遺影は、一番良いときに私が撮った写真。ふと声を聞くことがある。人間の身体は消えていくけれど、その意志は、おもいは、それを受けとめるものたちの中でつながっていく。小さな歴史は続いていくと感じている。

 全障研しんぶん12月号 シリーズ「アラウンド55」より